Q 当時の「結婚」はどのようなものだったのですか?

A 恋におおらかな時代で、男性は本妻以外に通いどころを持つ事が許されていました。結婚には二種類あって、親同士が決める結婚と、本人たちで決めるものです。親が決める場合は、おおかた家と家の政略結婚で、妻は「北の方」などと呼ばれる本妻になります。本人たちの場合は今の恋愛結婚と同じですが、二番目以下の妻になるケースがほとんどですね。どちらの結婚も、男性が三晩続けて彼女と過ごし、三日目の夜に二人でお餅を食べることで夫婦となりました。
 今と違うのは、夫婦別姓ということ。それから、妻がお嫁にいくのではなく、サザエさんの家のように妻のいる自宅に男性がお婿さんとしてやってくること。だから嫁姑問題よりも婿舅問題がよくあったのです。お婿さんは最初のうちは実家から妻の家に通ったので、「通い婚」ともいいます。年が経つとずっと一緒に暮らすようになるのですが、それは北の方の場合だけ。二番目以下の妻は、いつまでも寂しい「通い婚」でした。


Q 当時の「恋愛」はどのようなものだったのですか?

A 今と違うのは、「顔を見るのは最後」ということですね。恋のきっかけも、気持ちの育て方も違います。きっかけはだいたい噂。「あの家にかわいい姫君がいる」などと聞いて、男君は胸をときめかせます。そこでアタックをかけるのですが、その手段は何はさておき文(手紙)、そしてその中の和歌です。だから、字がきれいなことと、歌作りが上手なことが恋の絶対条件でした。歌についてはマニュアル本があって、「告白」とか「人妻」とか状況別に和歌が並べられていましたから、一人一冊!の必携本だったでしょうね。何度か歌のやりとりをして気持ちが触れ合うと、やっと会う。でもこれも最初は御簾(カーテン)越しで、姫は部屋の奥におり、女房が伝言ゲームのように言葉を伝えたり。少しずつ距離が近くなって、やっと二人で夜を過ごす「逢瀬」となります。当時の夜は真っ暗で、男性は暗いうちに帰ったので、男女の仲になっても顔は見たことがないということすらあったのです。


Q 歌はどのような時に交わしていたのでしょうか?

A まずは文(ふみ)。今のメールにあたる、手紙です。友達や恋人、大切な人と交わすメールには心を込めて、言葉も選びますよね。その文章に歌を付けることが、平安人のエチケットでもあったのです。
 中でも一番大切だったのは、恋人たちが一夜をデートで過ごした後に交わす「後朝(きぬぎぬ)の文(ふみ)」でしょう。「また来るよ」と彼女の部屋を後にすると、彼は帰りの牛車の中でもう歌を書き始めます。私たちがデコメールをするように、文は紙を選び、季節の花に付けるなど工夫しました。
  もちろん、直接顔を合わせながら歌を交し合うことも。まるでオペラのアリアのように、気持ちが高まると紙を取り出し、歌を詠みました。『紫式部日記』では藤原道長が、おやつの下に敷いてあった懐紙を取り、即興で紫式部に歌を書いています。内容は「『源氏物語』を書くくらいだから、お前も経験豊富なのだろう?」こんな冗談も歌で交わしていたのです。


Q 流行の化粧や美容法について教えてください。

A 大人になると、女性は眉毛を抜きます。『枕草子』には「もののあはれ知らせ顔なるもの(しみじみした気持ちを表す顔つき)」に「眉ぬく」様子が挙げられていて、笑えます。確かに、眉を抜くと痛くて涙目になりますからね。
 お化粧は、まず顔全体におしろいを塗り、眉を描き、頬紅と口紅で仕上げるというもの。おしろいは鉛の粉が主成分ですが、結構簡単に落ちてしまい、化粧直しが必要でした。清少納言も顔に袖を当てたらおしろいがはげ、まだらになってしまったと言っています。『紫式部日記』には、泣いてお化粧のはげた同僚が誰だか分からない顔になっていたともあります。
 今と随分違うのは、お歯黒でしょう。眉毛を抜くのと同じように十三、四歳頃から、歯を黒く染めたのです。貴族の場合、男性でもおしろいやおはぐろをしていました。色黒男子はもてなかったようですよ。

Q 若者達はどのような遊びをしていたのでしょうか?

A 貴公子たちは、結構スポーツ好きでした。貴族の邸宅にはおおかた広い庭があったので、そこで弓や蹴鞠をしたのです。弓は引く姿も凛々しく、貴族が嗜むべき武芸でもありました。『大鏡』では、若き日の藤原道長が弓の上手だったとされています。また蹴鞠は、庭にフィールドを設け、鞠を長くパスし合う遊びです。三度蹴っては次に渡すのがルールですが、貴族にしては結構動きの激しいスポーツで、装束も乱れがち。それでも楽しいので、清少納言も『枕草子』で「さま悪しけれど、鞠もをかし(不格好だけれど、蹴鞠も素敵)」と批評しています。外に出てスポーツをすることのない女性たちは、御簾の中からどきどきしながら見物したのです。
 屋内では、双六や碁、音楽など。特に音楽は、平安時代に「遊び」といえば笛や琴の演奏を指したくらいでした。ほかに『源氏物語』では、プレーボーイの匂宮がしゃれた絵を描いて女の子を喜ばせたりしています。

Q 当時流行の着物(柄や着方など)があれば教えてください。

A ポイントは、カラーコーディネートです。基本的に絹が今よりずっと薄くて、下が透けて見えたので、それを重ねて色の重なり具合を楽しんだのです。例えば『枕草子』で、清少納言の同僚女房たちが着ていたという「朽ち葉の唐衣」。これは褐色に近いオレンジ色の表地に黄色い裏地を付けて、重なった色を枯葉に見立てたもの。「唐衣」はウエスト丈の上着で、これを付けると正装、女房(侍女)にはお仕事スタイルです。
 また、インナーを何枚も重ね着して、襟元や袖口に出る色具合を楽しみました。紅からピンクへのグラデーションは「紅梅の匂」、紅・黄・緑で「青紅葉」など、自然の景物に見立てた名前もいかにも優雅ですね。
 ところで、現代の奥さま・お嬢さまがカーディガンを着る時、袖を通さず肩に羽織ることがありますが、平安の女房にも似た着こなしがあります。唐衣を着る時、襟元をきっちり合わせず、肩からすべり落ちた感じにずらすのです。ぐっとくつろいだ雰囲気で、憧れのスタイルだったようですよ。


Q 女性はどのような仕事についていたのでしょうか。当時の女性の「出世」についても教えてください。

A 専業主婦か、外で働くのか。女性の悩みは今も昔も変わりませんね。平安時代、庶民の女性の職業は、市女(物売り)や白拍子(芸能人)から遊女までいろいろでした。が、貴族階級にかかわる女性ならば、やはり一番ポピュラーだったのは「女房」でしょう。内裏や貴族の邸宅に小部屋を与えられて住み込み、御主人の教育係や遊び相手を務めたり、催しに華やかに着飾って参加し彩りを添えることなどが仕事です。女房は様々な人と会うので、性格がすれてしまうと言って嫌がる男性も多かったようですが、清少納言は「女房勤めの世界でこそ運が開ける」と思っていました。
 そんな出世女子の代表が、清少納言の周りに二人いました。一人は中宮定子のお母様。もとは内裏女房でしたが、大臣家の貴公子と知り合い、玉の輿に乗りました。もう一人は、内裏女房を束ねるトップ・橘典侍徳子(たちばなのないしとくこ)。叩き上げの内裏女房でしたが、天皇が生まれた時乳母に抜擢されて、頂点へと登りつめたのです。


Q 女性が好んだ食べ物について教えてください。

A 『枕草子』にはかき氷が出てきます。氷を削り、あまづらという甘味料をかけて、新調の金属の器に盛った物が「あてなるもの(上品なもの)」だというのです。冷蔵庫のなかった時代、確かに氷はセレブでないと食べられないもの。繊細な感じも含めて、清少納言は好きだったのですね。『源氏物語』では女房たちが栗をぽりぽりおいしそうに食べています。
 『紫式部日記』には、中宮彰子に梅の実が出されている場面があります。この時懐妊中で、酸っぱいものが欲しかったのでしょう。同じように『枕草子』には、懐妊中の皇后定子に清少納言が「青ざし」というお菓子を差し上げる場面があります。これは青麦の粉で作った珍しいお菓子です。もちろん柑子(こうじ)も、悪阻の時期の女性に好んで食べられました。『蜻蛉日記』には、初瀬詣からの帰り道の精進落としにと差し入れされた品々が記されていますが、その中の鯉は、今でも妊婦の体に良いとされるもの。子どものほしかった『蜻蛉日記』作者に気を利かせた品と考えられています。


Q 和歌はどのような場でどのような人から教えてもらっていたのでしょうか。

A まずは家庭学習。『枕草子』には、ある大臣が娘に命じて『古今和歌集』二十巻を丸暗記させたと記されています。『古今和歌集』は当時和歌のバイブルとして崇められていましたから、確かに基礎学習に最適ですね。『源氏物語』では、光源氏が幼い若紫に習字を教える時、自作の和歌を手本に与え、若紫にも歌を作らせています。また『古今和歌集』の撰者・紀貫之が書いた『土佐日記』には、旅の船で皆が歌を詠み合う場面があります。中にはまだ幼い召使の少女もいて、最初は恥ずかしがっているのですが、とても上手で皆びっくり。このように身近な人の手ほどきで、褒められたり直されたりしながら学んでゆくものでしたから、親子代々が和歌の上手ということが、ごく自然にありました。
 ただ、『枕草子』からしばらくたつと、貴族の中には和歌を家業とする家が現れます。そうなると流派が生まれ、師が弟子を取り、「秘伝」が伝授されるようになっていきました。

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『はなとゆめ』の世界を楽しむ 山本淳子教授平安時代の風俗についての解説 提供:風俗博物館

『はなとゆめ』の世界を楽しむ

Q 当時の「結婚」はどのようなものだったのですか?

A 恋におおらかな時代で、男性は本妻以外に通いどころを持つ事が許されていました。結婚には二種類あって、親同士が決める結婚と、本人たちで決めるものです。親が決める場合は、おおかた家と家の政略結婚で、妻は「北の方」などと呼ばれる本妻になります。本人たちの場合は今の恋愛結婚と同じですが、二番目以下の妻になるケースがほとんどですね。どちらの結婚も、男性が三晩続けて彼女と過ごし、三日目の夜に二人でお餅を食べることで夫婦となりました。
 今と違うのは、夫婦別姓ということ。それから、妻がお嫁にいくのではなく、サザエさんの家のように妻のいる自宅に男性がお婿さんとしてやってくること。だから嫁姑問題よりも婿舅問題がよくあったのです。お婿さんは最初のうちは実家から妻の家に通ったので、「通い婚」ともいいます。年が経つとずっと一緒に暮らすようになるのですが、それは北の方の場合だけ。二番目以下の妻は、いつまでも寂しい「通い婚」でした。

Q 当時の「恋愛」はどのようなものだったのですか?

A 今と違うのは、「顔を見るのは最後」ということですね。恋のきっかけも、気持ちの育て方も違います。きっかけはだいたい噂。「あの家にかわいい姫君がいる」などと聞いて、男君は胸をときめかせます。そこでアタックをかけるのですが、その手段は何はさておき文(手紙)、そしてその中の和歌です。だから、字がきれいなことと、歌作りが上手なことが恋の絶対条件でした。歌についてはマニュアル本があって、「告白」とか「人妻」とか状況別に和歌が並べられていましたから、一人一冊!の必携本だったでしょうね。何度か歌のやりとりをして気持ちが触れ合うと、やっと会う。でもこれも最初は御簾(カーテン)越しで、姫は部屋の奥におり、女房が伝言ゲームのように言葉を伝えたり。少しずつ距離が近くなって、やっと二人で夜を過ごす「逢瀬」となります。当時の夜は真っ暗で、男性は暗いうちに帰ったので、男女の仲になっても顔は見たことがないということすらあったのです。

Q 歌はどのような時に交わしていたのでしょうか?

A まずは文(ふみ)。今のメールにあたる、手紙です。友達や恋人、大切な人と交わすメールには心を込めて、言葉も選びますよね。その文章に歌を付けることが、平安人のエチケットでもあったのです。
 中でも一番大切だったのは、恋人たちが一夜をデートで過ごした後に交わす「後朝(きぬぎぬ)の文(ふみ)」でしょう。「また来るよ」と彼女の部屋を後にすると、彼は帰りの牛車の中でもう歌を書き始めます。私たちがデコメールをするように、文は紙を選び、季節の花に付けるなど工夫しました。
 もちろん、直接顔を合わせながら歌を交し合うことも。まるでオペラのアリアのように、気持ちが高まると紙を取り出し、歌を詠みました。『紫式部日記』では藤原道長が、おやつの下に敷いてあった懐紙を取り、即興で紫式部に歌を書いています。内容は「『源氏物語』を書くくらいだから、お前も経験豊富なのだろう?」こんな冗談も歌で交わしていたのです。

Q 流行の化粧や美容法について教えてください。

冲方 大人になると、女性は眉毛を抜きます。『枕草子』には「もののあはれ知らせ顔なるもの(しみじみした気持ちを表す顔つき)」に「眉ぬく」様子が挙げられていて、笑えます。確かに、眉を抜くと痛くて涙目になりますからね。
 お化粧は、まず顔全体におしろいを塗り、眉を描き、頬紅と口紅で仕上げるというもの。おしろいは鉛の粉が主成分ですが、結構簡単に落ちてしまい、化粧直しが必要でした。清少納言も顔に袖を当てたらおしろいがはげ、まだらになってしまったと言っています。『紫式部日記』には、泣いてお化粧のはげた同僚が誰だか分からない顔になっていたともあります。
 今と随分違うのは、お歯黒でしょう。眉毛を抜くのと同じように十三、四歳頃から、歯を黒く染めたのです。貴族の場合、男性でもおしろいやおはぐろをしていました。色黒男子はもてなかったようですよ。

『はなとゆめ』の世界を楽しむ

Q 若者達はどのような遊びをしていたのでしょうか?

A 貴公子たちは、結構スポーツ好きでした。貴族の邸宅にはおおかた広い庭があったので、そこで弓や蹴鞠をしたのです。弓は引く姿も凛々しく、貴族が嗜むべき武芸でもありました。『大鏡』では、若き日の藤原道長が弓の上手だったとされています。また蹴鞠は、庭にフィールドを設け、鞠を長くパスし合う遊びです。三度蹴っては次に渡すのがルールですが、貴族にしては結構動きの激しいスポーツで、装束も乱れがち。それでも楽しいので、清少納言も『枕草子』で「さま悪しけれど、鞠もをかし(不格好だけれど、蹴鞠も素敵)」と批評しています。外に出てスポーツをすることのない女性たちは、御簾の中からどきどきしながら見物したのです。
 屋内では、双六や碁、音楽など。特に音楽は、平安時代に「遊び」といえば笛や琴の演奏を指したくらいでした。ほかに『源氏物語』では、プレーボーイの匂宮がしゃれた絵を描いて女の子を喜ばせたりしています。

『はなとゆめ』の世界を楽しむ

Q 当時流行の着物(柄や着方など)があれば教えてください。

A ポイントは、カラーコーディネートです。基本的に絹が今よりずっと薄くて、下が透けて見えたので、それを重ねて色の重なり具合を楽しんだのです。例えば『枕草子』で、清少納言の同僚女房たちが着ていたという「朽ち葉の唐衣」。これは褐色に近いオレンジ色の表地に黄色い裏地を付けて、重なった色を枯葉に見立てたもの。「唐衣」はウエスト丈の上着で、これを付けると正装、女房(侍女)にはお仕事スタイルです。
 また、インナーを何枚も重ね着して、襟元や袖口に出る色具合を楽しみました。紅からピンクへのグラデーションは「紅梅の匂」、紅・黄・緑で「青紅葉」など、自然の景物に見立てた名前もいかにも優雅ですね。
 ところで、現代の奥さま・お嬢さまがカーディガンを着る時、袖を通さず肩に羽織ることがありますが、平安の女房にも似た着こなしがあります。唐衣を着る時、襟元をきっちり合わせず、肩からすべり落ちた感じにずらすのです。ぐっとくつろいだ雰囲気で、憧れのスタイルだったようですよ。

Q 女性はどのような仕事についていたのでしょうか。当時の女性の「出世」についても教えてください。

A 専業主婦か、外で働くのか。女性の悩みは今も昔も変わりませんね。平安時代、庶民の女性の職業は、市女(物売り)や白拍子(芸能人)から遊女までいろいろでした。が、貴族階級にかかわる女性ならば、やはり一番ポピュラーだったのは「女房」でしょう。内裏や貴族の邸宅に小部屋を与えられて住み込み、御主人の教育係や遊び相手を務めたり、催しに華やかに着飾って参加し彩りを添えることなどが仕事です。女房は様々な人と会うので、性格がすれてしまうと言って嫌がる男性も多かったようですが、清少納言は「女房勤めの世界でこそ運が開ける」と思っていました。
 そんな出世女子の代表が、清少納言の周りに二人いました。一人は中宮定子のお母様。もとは内裏女房でしたが、大臣家の貴公子と知り合い、玉の輿に乗りました。もう一人は、内裏女房を束ねるトップ・橘典侍徳子(たちばなのないしとくこ)。叩き上げの内裏女房でしたが、天皇が生まれた時乳母に抜擢されて、頂点へと登りつめたのです。

Q 女性が好んだ食べ物について教えてください。

A 『枕草子』にはかき氷が出てきます。氷を削り、あまづらという甘味料をかけて、新調の金属の器に盛った物が「あてなるもの(上品なもの)」だというのです。冷蔵庫のなかった時代、確かに氷はセレブでないと食べられないもの。繊細な感じも含めて、清少納言は好きだったのですね。『源氏物語』では女房たちが栗をぽりぽりおいしそうに食べています。
 『紫式部日記』には、中宮彰子に梅の実が出されている場面があります。この時懐妊中で、酸っぱいものが欲しかったのでしょう。同じように『枕草子』には、懐妊中の皇后定子に清少納言が「青ざし」というお菓子を差し上げる場面があります。これは青麦の粉で作った珍しいお菓子です。もちろん柑子(こうじ)も、悪阻の時期の女性に好んで食べられました。『蜻蛉日記』には、初瀬詣からの帰り道の精進落としにと差し入れされた品々が記されていますが、その中の鯉は、今でも妊婦の体に良いとされるもの。子どものほしかった『蜻蛉日記』作者に気を利かせた品と考えられています。

Q 和歌はどのような場でどのような人から教えてもらっていたのでしょうか。

A まずは家庭学習。『枕草子』には、ある大臣が娘に命じて『古今和歌集』二十巻を丸暗記させたと記されています。『古今和歌集』は当時和歌のバイブルとして崇められていましたから、確かに基礎学習に最適ですね。『源氏物語』では、光源氏が幼い若紫に習字を教える時、自作の和歌を手本に与え、若紫にも歌を作らせています。また『古今和歌集』の撰者・紀貫之が書いた『土佐日記』には、旅の船で皆が歌を詠み合う場面があります。中にはまだ幼い召使の少女もいて、最初は恥ずかしがっているのですが、とても上手で皆びっくり。このように身近な人の手ほどきで、褒められたり直されたりしながら学んでゆくものでしたから、親子代々が和歌の上手ということが、ごく自然にありました。
ただ、『枕草子』からしばらくたつと、貴族の中には和歌を家業とする家が現れます。そうなると流派が生まれ、師が弟子を取り、「秘伝」が伝授されるようになっていきました。







「本の旅人 2013年12月号」



待望の文庫化!







電子ビジュアル版は新聞連載時のカラー挿画(遠田志帆/画)全198点を収録!