『Dジェネシス ダンジョンが出来て3年』11巻 特典
期間限定 書き下ろし小説

"As you like it."

之 貫紀


§ 始めに
 一部に、11巻を読んでいないと分からない表現があります。なるべく、本編を先にお読みください。
 なお、10巻のSSである、Metamorphoses は、2019年4月7日の話で、この物語は、2019年4月17日の話となっています。

§ 2019年4月17日(水)

      渋谷区 松濤

「あれ? 涼子出かけるの?」

 コンビニで買った飲み物を持って、マンションのエントランスに入ったところで、遙は、階段を下りてきた涼子と鉢合わせした。

「まあね。はるちゃんはコンビニ?」
「なーんだ、明日からコロンビアだって言うから、最後の調整に付き合おうと思ってたのに」

 涼子の問いに頷きながら、遙は残念そうにそう言った。
 おおよそ十日ぶりの休日だけれど、たまたま彼女とかぶっていたから、午後から少し付き合ってもらおうと思っていたのだ。

「はるちゃん……アーチェリーの最後の調整にダンジョンでスライムを叩く人は、あんまりいないんじゃないかな」
「え? そ、そうかな?」
「それにさ、うら若き乙女が、たまの休みにいーっつもダンジョンってのも、ちょーっと寂しくない?」

 そりゃ、精神的に余裕がなく、焦って特訓に没頭していた頃ならともかく、今なら多少は余裕もある。
 ま、そこで気を抜かないのがはるちゃんのいいところなんだけど、さすがに毎回はないよと、涼子は眉をひそめた。

「へー、じゃあ、うら若き乙女はどこに行くわけ?」

 いつもより気合いの入ったナチュラルメイクなのに、少しハイウェストになったスカートっぽいキュロットにスニーカーというややスポーティな軽装だ。
 しかも、トップスはゆったりとした襟元のノーカラーシャツに、ノーカラーのリネンジャケットで袖をまくり、生成りっぽい色合いで統一された少し女性を意識した普段着プラスって感じだ。
 公園へ散歩と言うには気合いが入り過ぎてるし、誰かとデートと言うには奇妙なボトムスだった。

「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」
「……え?」
「こないだ引っ張り回した(*1)お礼だって誘われた」

 そう言われれば、植物園って感じの装いだろうか。

「こないだって……じゃあ、佐山さんに?」
「んだんだ」

 イベントでも食事でもなく、植物園。しかも東大の大学院の研究科附属って……

「なんて言うか……斬新?」

 グループで行くのならともかく、今時の高校生でも、二人きりのデートに動物園を選ぶカップルは珍しい。
 アウトドアな二人なら、ハイキング気分で多摩動物公園はあるかもしれないが、それだって、タスマニアデビルのダーウェント(*2)を見に行こうなんて誘う男子はあまりいそうにないし、ましてや植物園なら何をか言わんやってところだ。

「それってデートなの?」
「どうだろ? 理系男子の考えてることって分っかんないよねー」

 桜の名所ならワンチャンあるかもしれないが、それにしたって東京の桜はとっくに葉っぱだけになっている。

「佐山さんって、実は、遊び慣れた都会の女たちを変化球で楽しませちゃうような高レベル男子?」
「ないない。こないだあちこち連れ回したけど、めっちゃ面白い反応だったよ」
「面白いって、一体どこに連れてったの?」
「どこって――」

 原石磨きなんてトンデモなイベントで、身だしなみを整えてご飯を食べて帰ってきたなんて楽しそうに言っていたけれど、具体的にどこへ行ったのかは聞いていない。
 だまって涼子の話を聞いていた遙は、そのあまりの内容にため息をついた。

「いや、涼子……実は仕返しの罰ゲームなんじゃ」
「ええ!?」

 私たちは事務所の経費だから忘れがちだけど、よく考えなくても、渋谷のサロンは、ただ髪を切るという行為の対価だと思えば十分高額だ。
 しかもその後ハイブランドで買い物って……それで反応が面白かったって……
 遙は、少しだけ佐山に同情した。

「で、でも、大丈夫っぽかったよ。一応Dパワーズのパーティカードを預かってたんだけど必要なかったし」
「それって結局、佐山さんが全額払ったんじゃない」
 
 遙は頭が痛くなった。
 もちろん佐山がそんなカードを預かっているなんてことは知らなかっただろうし、もしもそのカードで支払ったとしたら、佐山から見れば涼子が支払ったように見えるだろう。
 初対面の女性にハイブランドを奢ってもらって平気でいられるのは、ホストかヒモだけだ。普通なら無理しても自分で払うか、購入を拒否するだろう。
 
「大丈夫じゃないかな? 三好さんによると、佐山さんって、そこらの大企業の社長なんか目じゃないくらいの収入だそうだし」

 そりゃあ、あの二人の関係者だし、涼子に紹介したのなら、それなりの裏付けがあるんだろうけれど、それにしたってもうちょっと常識をわきまえてほしい。
 他人のデートにパーティカードを渡しちゃう三好さんもどうかと思うが、後からカードの明細で、どこに行ったのかを確認できるし、これは絶対興味本位ねと遙は思った。だが、まさか芳村と二人で後を付けていたとは思いもしなかった。

「それは凄いけど……涼子もちょっとやり過ぎじゃない」
「最初にガツンとかましておこうと思って」
「何それ?」

 涼子の言い草に、遙は苦笑した。
 不良同士のけんかじゃないんだから、そんなしようもないマウントを取ってどうするのよ。というか、マウントですらないでしょ、それは。

「それで、結局どうだったわけ?」
「どうって、何が?」
「何、しらばっくれてるのよ。でもまあ、二回目のデートに向かうってことは、満更でもないんでしょうけど」
「いやー、原石磨きは一回じゃ終わらなくない?」
「何言ってるの。だけど、もし付き合ってくれって言われたらどうするの?」
「え? 佐山さんに?」
「そう」
「んん――玉の輿?」

 それを聞いて遙が吹き出した。
 確かに自分たちの給料はさほどでもない。初期投資が必要な芸能人あるあるだ。
 
「いい人っぽいけど、まだ分かんないよ」
「大女優に彼氏は不要じゃない?」
「大女優になることと、結婚することは、別に矛盾しないでしょ」
「へー」

 人気商売で、それは結構難しいんじゃないのと遙は思ったが、人知れず付き合っている人たちは結構いるし、不可能って程のこともないだろう。
 もっとも、一般の人相手だと、そういう特殊な付き合い方に相手が耐えられるかどうかの方が問題だ。

「だけど心配しないで、はるちゃんの邪魔はしないから!」
「え?……ええ!? ちょ、何言ってるの!」
「じゃ、そっちはそっちで頑張ってねー」

 涼子は、慌てる遙を置き去りにして、手を振りながら、マンションから出ていった。

「こ、こら!」

 怒ってはみせたものの、どうせダンジョンには行く予定だ。

「誘ってみようかな」

 遙は携帯を取り出して、連絡先を立ち上げると、しばらくエントランスでその画面を見ていた。



      代々木八幡 事務所

 午後の柔らかな日差しが、差し込むダイニングでお茶を楽しんでいると、上から下りてきた三好が、玄関へと向かいながら声をかけてきた。

「あ、先輩。私、今日、夜は外で食べますから」
「ん? 了解。で、今日はどこに行くんだ?」

 お金に困らなくなって、三好のやつは趣味の外食が増えるかと思ったら、そうでもない。頻度としては会社時代と大きく変わらないようだ。まあ、ここ半年、それどころじゃなかったってこともあるだろうけれど。
 それにしても今日はカジュアルだな。用意してる靴もスニーカーだし。普段こいつが行くようなレストランは、スマートカジュアルが多いはずだが。

「ちょっとスカースカ(*3)に誘われて」
「なんだその中身がなさそうなのは?」
「すかすかじゃありませんよ、スカースカです!」
「で、何それ?」
「おとぎ話、なんて意味らしいですよ。ロシアやウクライナの家庭料理の店っぽいんですけど、そっちはあんまり経験なくって」

 後で調べてみたところ、この名前のお店はロシアじゃ珍しくないそうだ。

「ロシア料理? そりゃ珍しい」

 歴史的には現代フランス料理のサービスの原点とされているし、古典フレンチに影響を与えたロシア料理も多いが、現代日本において食べる機会はさほど多くはない。
 新宿に芸能人がオーナーのロシア料理屋があると聞いたことはあるが、残念ながら行ったことはなかった。

「ドミトリーさんにチョーヌルイ茶をご馳走になるんです!」

 いや、お前、それはチョールヌイ・チャイ(紅茶)だろ。いや、そこじゃない!

「ド、ドミトリーってドミトリー=ネルニコフ?」
「他にそういう名前の知り合いがいます?」
「お前、ロシアの英雄と付き合ってんの!?」 
「ロシア美人の嫉妬の炎で焼き尽くされる未来が見えそうですよ、それ。って、そんなわけないですよ。普通、行くでしょ? 知り合いとご飯くらい」
「そりゃまあそうだが……」
 
 知り合い? まあ、知り合いか。
 日本で、女性とご飯に出かける男たちのうち、その女性と付き合っている確率は思ったよりも低い。特に美食が趣味になっているような連中はその傾向が高い。
 だけどな、ロシアにデーティング文化(*4)はないんだぞ、確か。
 
 そもそも、相手がロシアの英雄様じゃ、どう考えても何かがくっついていることは間違いない。
 こないだうちでサイモンたちと鉢合わせしたのだって、色々な界隈を騒がせたっぽいし、そんな状況で、ミーチャとワイズマンが一緒に出かける?
 
「あまり食べたことのないロシア料理を、ロシアの人の解説付きでいただけるチャンスなんてめったにありません!」

 心から嬉しそうに拳を握る三好を見て、こいつチョロいなと思ったことは内緒だ。

「ミーチャが料理の解説なんかするか?」
「んー、ほら、あの人、見かけによらないところがあるじゃないですか」

 確かに、最初はともかく、求道者みたいな見かけと違って、普通に話せるやつだったけどさ。

「ワインや食事につられるのはほどほどにしとけよ。今度はロシアから頼み事をされるぞ」
「チョーヌルイ茶の対価に? そんなことあり得ま――って、クリコバなら、何か凄いのが眠っていそうな気もしますね……」
「お前ね……」

 クリコバはモルドバにある炭鉱跡に作られた国営の巨大な地下ワインセラーだ。
 炭鉱を利用したセラーのうち、最も大きなものは、ギネスにも認定されている「ミレシュティ・ミチ」だが、こちらに保管されているワインは最高で70年代で本数はわずかなようだ。
 クリコバはそれに次ぐ規模を誇りながら、世界各地の個人のワインを預かるプライベート・コレクションがあり、それを観光用に展示したりもしている。

「不思議な場所ですよね。フェッツアーの91とか、グレン・エレンの92とかが、大層に銘板付きで飾られてるんですよ。どちらも一族経営最後の年だからですかねー」

 フェッツアーは1992にブラウン・フォーマンに、グレン・エレンは、1993にヒューブラインに、一族経営ではまかなえないくらい売れまくったために売却されたそうだ。

「お前のコレクションと一緒じゃん」

 こいつのセラーもそんな感じのイベントワインで埋まっている。同病なんとやらだ。
 そんな突っ込みをスルーするように、「グラサ・デ・コトナリの79とか、他じゃまず見られません」などとのたまっている。

 コトナリはルーマニアのワインに使われるブドウらしい。
 そもそもルーマニアが社会主義国を脱して共和制に移行したのは1989年以降のことで、それまで日本にそんなワインは入ってこなかったからという理由もあるだろう。

「最近じゃ、ジョージアやモルドバのワインも結構輸入されていますし、余り飲む機会がないから堪能してきます!」
「まあお前はそういうやつだよな。ま、気をつけてな」
「ロシアの英雄様と一緒なら、何が来たって先輩の次くらいには安心でしょ」
「どういう比較だよ、それ」

 まあ、そうでなくてもカヴァスたちがいれば、そこらの探索者レベルでは相手にならないだろうし、仮にサイモンたちやミーチャクラスが相手でも、初見ならいけるか。

「まあいいや、カプラ!」

 俺がそう言うと、三好は笑って事務所を出て行った。

「ミーチャと食事ねぇ……」

 そう呟いたとき、ポケットの携帯が振動した。



      港区 西麻布1丁目

「ドミトリーが出かけようとしています」
「ドミトリーが? 行動予定は?」
「何も」

 休日のドミトリーは、ほとんどがレジデンスにいて、自身や装備をメンテナンスするための時間に費やしていた。
 
「やれやれ、彼の休日の護衛は、ほとんど暇ないい仕事だったはずなんだがな」

 そういった男が、後1枚に減っていたカードをテーブルの上に伏せたまま置いた。
 隣の男が十枚に近いカードを投げて、ドゥラーク(*5)にならずに済んだことを喜びながら、横に避けてあった2から5のカードを一緒にしてまとめた。
 窓際で鉛筆を片手にクロスワードパズルを解いていた男が、それをテーブルの上に放って立ち上がった。

 今年の一月の終わり頃から、休日のドミトリーには本人には知らされず、護衛という名目で監視が付いている。
 サイモンたちと接触して、亡命を疑われたのが始まりだ。

 今日のドミトリー追跡チームのリーダーナチャリニクは、ラ・フォンテーヌの5階に陣取っているチームのアレキサンドルサーシャだ。
 一般的に完全な尾行は四人態勢で行うが、何しろ東京は大都会で移動ルートは非常に複雑だ。ドミトリー追跡チームは車2台を利用した全8名で行われていた。通常、武器を携帯している彼らの移動は大使館車両を含む車だからだ。
 
 いつものように車で渋谷方面へ向かったまでは良かったが、その後あろうことか、ドミトリーは、渋谷から電車に乗りこんだ。
 昔と違って現代ではプリペイドのICカードが主流だ。つまりあらかじめ行き先が分からないのだ。
 
「ボリス10。アンナ10。チーグルトラは半蔵門線に乗り込んだ」
「それなら十三駅しかありませんし、距離も短い。なんとかなります」

 情報分析官のアンナ12は、ほっとしたようにそう言ったが、それに続いた報告が、彼を一瞬黙らせた。
 
「急行、南栗橋行きだ。どうぞプリヨーム
「……それだと移動する可能性のある場所が、栃木や群馬に広く分布しています」

 半蔵門線から東武スカイツリーラインへの相互乗り入れは、日光線の南栗橋まで続いているが、途中東武動物公園から、そのまま伊勢崎線へ入れば葛生や赤城、伊勢崎と繋がっている場所は多い。
 
「事実上、車での追跡は困難です」

 それを地図を見ながら聞いたサーシャは、すぐ全員に指示を飛ばした。

「ボリス10。こちら、アンナ10。プリヨーム」
「ボリス10、スリィシュ・ハラショー。プリヨーム」
「乗り込んだ電車の行き先が広すぎる。取りあえず1台は乗換駅である押上に向かわせる。所有時間はおよそ30分。もう一台は一般道で押上に向かう。動きがあったらすぐに連絡しろ。プリヨーム」
「ボリス10、了解ポーニャル交信終了カニェーツ・スヴャージ
「ワリーシー10、こちら、アンナ10。聞いていたか? プリヨーム」
「ワリーシー10、ポーニャル。高樹町料金所から、両国JCTに向かいます。プリヨーム」
「できるだけ急げ。カニェーツ・スヴャージ」

 渋谷から両国JCTまでは、上手くいけば30分程だろう。最悪、グルーパ・ボリスの徒歩チームに頼るしかない。
 どこへ行くのか知らないが、とんだ休日になりそうだと、サーシャはため息をついた。



      文京区 白山

「お天気、大丈夫かな?」

 雨が降り出してもおかしくなさそうな、厚い雲に覆われた午後。
 肌をなでる風は、まだ少し冷たさを残しているものの、春の気配と湿気をたっぷりと含んでいた。
 
 白山で下車した涼子は、蓮花寺通りへ入って、そのまま御殿坂を下っていくと、坂下にある標識が、徳川綱吉が将軍になるまえに住んでいた白山御殿があったから御殿坂というのだと説明していた。それまでは大坂と呼ばれていたようだ。
 涼子は振り返って今下りてきた坂を見上げた。なかなか急な坂でこれを上るのは大変そうだ。
 
「なるほど、大坂ね」
 
 坂を突き当たりまで下りると、右手の個人商店にある自販機の所に佐山が立っていた。
 緑がかった黒いハイネックのニットシャツにベージュのチノパンと、落ち着いたブラウン系のテーラードジャケットの装いは、前回と比べると、なかなか決まっている。
 
 ファッションというものは、一度ラインを踏み越えさせると、意外と気をつけ始めるものだ。何しろだらしない格好とは周りの反応が違う。
 大学生なら、だらしない格好でも洗いざらしで清潔感をアピールすればいいが、いい年をした大人には室内着ならともかく、外出するには少しハードルが高い。いわゆる上級者向けというやつだ。
 初心者は、むしろきちんとした格好の方が外れが少ない。
 
 坂下からその姿を採点していた涼子に気が付いた佐山に、彼女は小さく手を振りながら駆け寄った。
 それだけで顔を赤くする佐山を見て、涼子が、「計算通り。さすがは理系男子、チョロいな」などと考えているとは思いもしないだろう。

「どうも。お久しぶりです」
「まだ半月も経ってませんよ!」

 十日前に、あの涼子の暴走事件があったばかりなのに、真面目な顔でそういう佐山に、彼女はころころと笑いながら突っ込んだ。

「でも、こんな場所で待ち合わせなんて、高校の時以来ですよ」
「すみません。この辺、ホント何もなくて」

 見る限り、通りにある店は、この個人商店と隣の雀荘くらいだ。
 だが、それならそれで、迎えに来いとは言わないけれど、駅前のお店とかで待ち合わせしないだろうか?

「それじゃあ、行きましょうか」

 うん、まだまだだなー、と思いながら涼子は「はーい」と返事をして、佐山の後に続いた。植物園の入り口は目の前だ。

「へー、ここが東京大学大学院理学系研究科附属植物園」

 なんてことのない学校の門のような入り口の門柱には『東京大学小石川植物園』と書かれている。
 入園料の看板がなければ、一般公開されているとは思えない入り口だ。
 
「初めてですか?」
「そりゃあね。だけど、植物園って、もっと整備されているのかと思ったら、意外と野趣溢れてる――というより森ですよね、これ」
 
 佐山が二人分の800円(*6)を払って入園した場所は、新緑の季節が訪れ、木々は徐々に緑の葉を色濃くしていた。
 しかも奥などまるで見えないし、道沿いの壁も終わりが見えなかった。文京区とはいえ、山の手の内側でこの大きさは凄い。

「東京ドームの3.5倍の広さだそうですよ」
「へー」

 とは言ってみたものの、東京ドーム何個分なんて言われて、具体的な大きさを感じ取れる人がどれほどいるだろう。
 普通はピンとこない。

「って言ってもよく分かんないですけど」

 その言葉に佐山が続けた。

「そうですねぇ、ディズニーランドの三分の一くらいでしょうか」
「全然広く感じませんね、それ」
「確かにそうですね」と、佐山が笑った。

 せっかくオチが付いたのに、それでもなんとか理解させようと説明するところが、理系男子のダメなところだ。
 そのくせ頭の中では、ディズニーがドーム11個分で、ここが3.5個分だから、ディズニー÷小石川植物園≒πだよ!などと意味不明なことを考えていたりする。
 さすがに口には出さなかったが。

「この辺りは坪三百万くらいだそうですから、ざっと千五百億円分くらいの広さでしょうか」
「むしろ遠くなってません? それ」

 凄い金額だとは思うが、広さは全くイメージできない。千五百億を三百万で割れば坪数なのだが、慣れないと桁を間違えそうだ。

「大体200m×230mくらいの長方形が、3.5個分ですよ」
「あ、ちょっとイメージできました!」

 そう言って足を踏み入れた園内で、最初に目に付くのはソテツの類いだ。
 
「わー、トゲトゲの木だ」
「ソテツですね」

 立っていたパネルには、池野成一郎が鹿児島で精子を発見したソテツを株分けしたものと書かれている。
 
「んん? 精子? 植物に精子ってあるんですか?」
「ええ。植物の場合、雄性配偶体から作られる配偶子のうち、運動能力を持ったものを精子と言うんですが――」
「はい?」

 日本語で説明されたにもかかわらず何を言っているのかよく分からない。何の呪文だと、涼子は作り笑顔で首を傾げた。

「精子や卵子を作る構造体を配偶体って言うんですが、そのうち雄の配偶子を作る構造体を雄性配偶体、雌の配偶子を作る配偶体を雌性配偶体と呼ぶんです」
「えー? じゃあ、雄性配偶体が精巣みたいな感じで、精子が配偶子?」
「いえ、残念ながら動物に配偶体はありません」
「ええ?」

 そのあと滅茶苦茶説明されたところによると、動物は減数分裂で精子や卵子を直接作り出すが、植物は、動かないという特性上、精子や卵子を作り出す配偶体というのを先に作って、それを飛ばしてその先で配偶体が配偶子を作り出すのだとか。
 被子植物においては、花粉が雌性配偶体にあたるのだそうだ。進んだ植物は精子ではなく精細胞が作られる。
 
 通常、精子は、シダ類など原始的な植物で見られていたものだが、それを世界で初めて裸子植物でも発見したのが銀杏で、ついでソテツだということだ。
 これが、これだから理系の男はって状況ねと、涼子は内心うんうんと頷くと、心の中で深呼吸をすると、さらっと反撃した。

「精子、精子って言ってると、なんだかちょっと照れますね」
「っ! す、すみません!」

 佐山が、赤くなりながらペコペコと頭を下げるのを見ていると、なんだかちょっと楽しい。
 もしかして私ってSっ気があるのかしら?

 道なりに進んでも、花なんかどこにもなく。緑、緑、また緑だ。そして、まるで墓石のごとく、白いネームプレートが並んでいた。
 そりゃまあフラワーパークってわけじゃないから、おかしくはないんだけど、ここをチョイスするセンスってなんだろう?
 もしかして本当に罰ゲーム?
 
 古い建物を回り込んだ先の十字路に、白い案内板が立っていた。
 そこには、ニュートンのリンゴだとか、メンデルのブドウだとか書かれていた。

「ニュートンのリンゴ?」
「ああ、この先に、ニュートンの家の前にあったリンゴの木を株分けした木があるんですよ」
「あの、リンゴの実が落ちたのをみて、エウレカ!って叫んだやつ?」
「なんか混じってませんかそれ」

 エウレカ!と叫んだのはアルキメデスだ。
 浴槽に入ったとき水位が上がるのを見て、複雑な形状の物体の体積を量る方法を思いついて叫んだのだとか。
 ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついたと言われている。
 
「あれって本当のことだったんだ」
「それはなんとも」
「ええ?」

「実はこの逸話は、ニュートン自身が晩年に言い出したんですよ」
「へー、本人が発信元なら正しいんじゃないの?」
「それが、そうとも言えないんです」
「え?」
「万有引力の法則は、彼が書いた歴史的な名著『プリンキピア』に書かれているんですが、この原稿が王立協会に提出されたとき、フックからパクリだ!と抗議を受けたんです」
「パクリ?」

 その理由は、1679年〜1680年にかけて、フックがニュートンに宛てた手紙の中で、「惑星の運動は、中心に向かう引力が『距離の2乗に反比例する』と考えれば説明がつくんじゃないか?」というアイデアを披露していたからだ。
 だが、ニュートンは、もっと早くそのことに気が付いていたと暗に主張するために、晩年、リンゴの木の逸話をひねり出した。

「ちょうどペストが大流行して、ケンブリッジ大学が閉鎖されたのは1665年のことなんですが、そのとき実家へと疎開したニュートンは、そこで色々な思索を行い、あるとき庭のリンゴの木からリンゴが落ちるのを見てひらめいたんだと主張したんです」

 フックがニュートンに手紙を書いたのは、1679年だが、ニュートンがひらめいたのは、1665~1666年のことだと暗に主張したわけだ。

「で、どっちが本当なんです?」

 その質問に、佐山は小さく方をすくめてみせた。
 真相は藪の中だが、どちらが本当であっても大した違いはない。『プリンキピア』が偉大な著作であることに間違いはないのだ。

「ニュートンって人は、ものすごくプライドが高くて、粘着質だったんです」
「粘着質?」
「同じように、微分積分の発見をめぐって、ライプニッツを陥れたりしてます」

 ライプニッツが微分積分を発表したのが1684年だが、そのときニュートンは、そんなの俺が20年も前に編み出してたよ!と主張した。
 批判を恐れて、20年以上も発表せず手元に隠していたのだ。そして、熱狂的なニュートン信者が、「ライプニッツはニュートンの未発表のノートを盗み見して、自分の手柄にしたパクリ魔だ!」と告発したものだから大論争になった。
 しかし、ライプニッツが身の潔白を証明するために調査を依頼したのがロンドン王立協会で、そのときニュートンはそこのトップだった。
 委員会を身内の科学者だけで固めてライプニッツには反論の機会を与えず、しかも「ニュートンが第一発見者であり、ライプニッツはそれを盗作した」という報告書を出すのだが、それの大部分を匿名で執筆していたのはニュートン本人だったというありさまだ。

「結果、ライプニッツは『希代のペテン師・パクリ魔』という不名誉な烙印を押され、失意のうちにこの世を去りました」
「ええー?」
「ライプニッツが死んだとき、ニュートンが『あいつの心をへし折ってやった』と大喜びしたという記録が残っているんですよ。以前ホーキング博士の著作で読みました」
「ちょっ、酷くない?」
「酷いですねぇ。でも、現在我々が使っている微積の記号は、ほぼ100%、当時ライプニッツが提唱した記述なんです」
「あのインテグラルとかいうやつ?」

 見ただけで怖気を振るいそうな様子で、涼子が嫌そうに言った。
 高二の時のトラウマだ。

「そうですそうです。英国はニュートン方式の記号を使っていたため、百年ほど苦労したそうですよ」
「ざまあってやつだね!」

 涼子の様子に苦笑しながら、道なりに歩いていると、やがてメンデルのブドウの木の向こうに、その木が見えてきた。

「ちょうどつぼみがついていますね」

 若々しい新緑の葉の付け根から、淡いピンクがかがった小さなつぼみがいくつも立ち上がっていた。
 
「わあ、可愛い。ケントの花って、書いてあるけどニュートンのリンゴなんだよね?」
「ケントの花っていう品種なんですよ」
「王林とかふじとか紅玉みたいな?」
「はい」

 ここへ来て初めての花だ。しかも小さく可憐と言ってもいいだろう。少しはロマンチックな雰囲気になりそうなシチュエーションだが、その木の向こうでは重機が活躍していた。
 新しい温室が作られている最中だったのだ。工事現場でロマンは花開かない。

「夏頃には実がなりますよ」
「え、食べられるんですか?」
「食べられますけど……凄くまずいそうです」

 ケントの花は、もともと調理用で、生食用のリンゴではない。
 現代のリンゴと比べると、渋いし粉っぽいし、一言で言うとまずいのだ。

「とにかく偉大な科学者であったニュートンさんは、プライドが高く、粘着質の嫌なやつってことだけはよく分かりました!」
「それだけじゃなく――」

 ここでやめておけばいいものの、佐山はさらに説明を追加した。
 現在では都市伝説と見なされている、ゆで卵を作ろうとして卵の代わりに高価な懐中時計を茹でた話や、研究室の扉の下を切って、猫用のドアを付けたのはいいけれど、子猫が生まれたら小さいドアをもう一つ付けたなんて話くらいならともかく、
 太陽を直視し続けて失明しかけたとか、ケンブリッジの研究室の実験小屋で、当時のイギリスではばれたら死罪の錬金術に没頭していたとか、涼子はその情報量だけで呆れていた。

 くっ、これが『理系の男って』の原点を語る、理系の男ってわけねと、涼子は妙に納得した。



      墨田区 錦糸1丁目

「待ち合わせがホテルのロビーなんて、先輩とは一味違いますね」

 芳村の場合は、大抵現地集合だ。面倒がないだろというのは本人の弁だ。
 そりゃ、ホテルのレストランやガストロノミーならウェイティングもあるだろうが、路面に入り口があって、他に何もないような場所にある店だったらとても困る。ドレスアップしたまま道路でうろうろするしかないのはちょっとかっこ悪い。
 もはやタクシーで乗り付けて、そのまま支払いをせずにオープンまで停車(*7)しておいてもらうしかない。

「滅茶苦茶カジュアルなドレスコードで誘っておいて、待ち合わせがホテルのロビーのカフェっていう人もどっかずれてますけどね」

 目の前にある東武鉄道の創立100周年を記念して建てられたホテルは、最高クラスの格式とは言えないが、東武のフラッグシップだけに十分上質なホテルだ。
 だが、日本のドレスコードは割と緩いので、それなりに格式あるホテルでもカフェくらいならよほど酷くなければ入れてくれる。ロビーにはドレスコードないし。
 
 このカフェは、ロビーよりやや低い位置に作られていて、ロビーから中がよく見える待ち合わせ向きの構造だ。
 ふと見ると、楕円にくりぬかれたような吹き抜けの下、このカフェの名物メニューである「さくらいろ」を前に、ビシッとスーツで決めたドミトリーが、上品な所作でカップを持ち上げて口にしていた。
 
「しかも、本人はビシッとスーツで決めてるって……」

 ただし、男性側がビシッと決めていれば、女性の側には大きな自由度が生まれる。男性は背景という文化で育った男たちは芳村とは違うのだ。芳村とは。
 気品溢れるというと、サイモンチームのジョシュアがそうだが、あちらとはまた違った硬骨の士といった雰囲気だ。それを見ていると、彼の私服はスーツ以外考えられない気がしてくる。

『おまたせしましたー』

      § § §

 陰ながら三好をフォローしているチームは日本にもあった。
 当初と違い、今では、護衛をするというよりもその動向を見守っているというほうが正しいだろう。
 比較的緩い監視だが、今日ばかりはチーム全体がフル稼働していた。
 
「三好梓がドミトリー=ネルニコフと接触した!?」

 そのインパクトは瞬く間に関係各所を駆け巡り、すぐに監視チームのバックアップにも集合がかけられた。

      § § §

『あの女、まさか……』

 ロビーの目立たない位置でさりげなく佇みながら、ドミトリーを見張っていた男は、密かに撮影された画像をすぐに指揮車に転送した。

『ナチャリニク! 今、ドミトリーと女が接触しました!』
『女?』
『映像、送ります』

 手にした端末に送られてきた画像を見たサーシャは、驚きの余り目を見開いた。
 そこに写っていたのは、日頃から忌々しげに眺めている眼下の家の住人だったからだ。

『ザ、ザ・ワイズマン!?』
 
 どうして彼女が、こんな場所でドミトリーと会っているのか? 以前の接触から面識はあるのだろうが、まるで友人のようにお茶を飲んでいるだと?
 サーシャは合理的な回答を思い浮かべることができなかった。
 ミトロヒンという言葉が、頭の中で激しくコサックダンスのステップを踏んでいる中、情報担当のアンナ12が言った。

『ハニートラップにしては、変わったタイプですね』

 確かにそれにはまるで向きそうにない女だが、彼女には別の価値がある。それも巨大な価値が。
 
 ドライバーのアンナ11が、錦糸町に向けてアクセルを踏み込みながら、『もしかしたらロシアへの引き抜きかもしれませんよ』と思いがけない言葉を口にした。
 引き抜き? 情報部でもなんでもない、あのドミトリーが?

『ボリス11、こちらアンナ10。会話は拾えるか? プリヨーム』
『アンナ10、ボリス11。否定ミヌス。プリヨーム』

 ホテルのロビーに大型の機材など持ち込めるはずがない。ガンマイクはおろか、小型のハイパーカーディオイド一つだって目立つだろう。
 小指ほどのシリーズもあるが、本来楽器やインタビュー用の超単一指向性マイクで、遠距離の音を拾うことは難しい。

『ボリス11、可能な範囲でやってみてくれ』
『アンナ10、ポーニャル。カニェーツ・スヴャージ』

『一体何が起こっている?』
『映像を見る限り、知り合いと優雅にお茶を飲んでいるように見えますが』
『休日に女とお茶会? ドミトリーが(*8)?』

 我々が到着すれば、使える機材も増えるだろう。とにかくしばらくは監視を続けさせるしかない。
 何も起こらないことを祈りながら。

      § § §

「ロビーに、チェキストめいた連中がいる」

 客になりすまし、レセプションで手続きを行うふりをしながら、目の角にその男を捕らえていた男が、フラワーホールの裏に仕込まれているマイクに小声で話した。

「三好梓を確保するつもりか?」
「いや、そういう感じじゃなさそうだ。今のところ、向こうさんも監視に留めてるってところだな」
「応援待ちか?」
「その可能性は高そうだ」

 現時点で、態勢が整っていないと言うことは、この事態が突発的に起こったと言うことだろう。
 だが、三好梓とドミトリー=ネルニコフが接触しているということは事実だ。一体何が起こっている?

「日本のホテル内じゃ、こちらが有利だ。03と04はロビーの椅子へ。05はそのまま。何が起こるか分からん。さりげなく囲め」
「了解」

      § § §

『ドミトリーさんは――』
『ミーチャと』
『あ、はい。ミーチャ、というかロシアの方はチョーヌルイ茶がお好きですよね』

 ドミトリーは微かに眉をひそめると「チョーヌルイ茶?」と呟いた。

『あー、なんでしたっけ、紅茶のこと』
『チョールヌイ・チャイだ』
『あ、それそれ』

 三好のチョーヌルイ茶が出されると、ドミトリーが、赤い実の入ったココットを三好の前に押し出した。

『ヴァレニエですか?』

 ヴァレニエは、果実の形が残ったジャムだが、いわゆるプリザーブスタイルのジャムほど粘度がなく、どちらかと言えばさらさらしている。
 いわゆる日本で言うロシアンティーは、ジャムを紅茶に入れたりするが、本来はヴェレニエと呼ばれるこのジャムを食べつつ紅茶を飲むことだ。

 ふと見ると、ドミトリーのカップには、レモンの輪切りが入っていた。
 彼はそれをスプーンの背でぎゅっと押しながら、小さく頷いた。

『ロシアの方って、レモンティーがお好きなんですか?』
『色々だが、俺は好きだな』

 ロシアで紅茶と言えばいわゆるブラックティーのことだ。だから、紅茶のことをチョールヌイ(*9)・チャイと呼ぶわけだ。
 それにヴァレニエやレモンが添えられて出てくるので、好みでそれを使うそうだ。
 
 伝統的には、サモワールと呼ばれる湯沸かし器を使い、その上に紅茶用のポットを置いて放置。滅茶苦茶濃くなったそれからカップにお茶を注ぎ、サモワールのお湯で割るのが古くからのスタイルだ。
 
『それに、イギリスでロシアンティーと言えば、レモン入りの紅茶のことだぞ』
『へー』

 十九世紀末に、ヴィクトリア女王がロシアへ嫁いだ孫娘から振る舞われたことに由来しているなんて説もあるらしい。

『しかし、アズサはコーヒー党じゃなかったのか?』
『まあそうですけど、今日はロシア料理ですよ? 絶対的紅茶気分ですよ!』
『ロシアでも今やロースタリーが急増しているし、90年代からラフ・コーヒーが流行ってるけどな』

 ラフ・コーヒーは、エスプレッソに生クリームとバニラシュガーを加えて、一緒にスチームするコーヒーのことだ。
 今や伝説的なモスクワのコーヒーショップ Coffee Bean の常連客だったラファエル氏のちょーてきとーな注文から生まれた裏メニューだったが、またたくまに普及して、今では周辺国でも飲まれているらしい。
 ラファエル氏が注文した珈琲だから、ラフ・コーヒー。「俺にもラフのコーヒーをくれよ」と言ったところから広まったらしい。

『でも、ミーチャは、紅茶ですよね』
『俺は保守的なのかもな』
『クラシックが似合いそうですもんねー』
『ぶふっ』

 三好にそう言われて、ドミトリーが小さく噴き出すと、それに反応するようにチラリと動く人影がいた。
 鋭い眼差しでそれを見とがめた彼は、カップの底に残っていたレモンをスプーンに乗せて、口に運んだ。

『へー、レモンも食べちゃうんですね』
『ロシアじゃそうだな』

 その昔、ガガーリンがエリザベス女王に食事に招かれた際、同じことをした。
 そのときは、エリザベス女王もそれに倣ったという。
 
 そう言えば、フィンガーボールの水を飲んじゃう話もヴィクトリア女王だった。もっともこちらは創作だろうと言われている。
 ちなみに、漱石の『吾輩は猫である』でも、苦沙弥先生が同じような話を伝聞の形で伝えている。

『じゃ、私も!』

 と三好が飲みかけの紅茶にわざわざ輪切りのレモンを入れて、同じことをするのを、ドミトリーが笑って見ていた。

      § § §

『ボリス10。ド、ドミトリーが笑っています……プリヨーム』
『アンナ10。まさか、何か話が付いたのか? プリヨーム』
『ボリス10。分かりませんが……あ、今立ち上がりました。どうやらホテルを出るようです』
『アンナ10。こちらも視認範囲に到着した。ホテルを出たら、ホテル前にいるボリス11に任せろ。プリヨーム』
『ボリス10。ポーニャル。カニェーツ・スヴャージ』

      § § §

『少々早いが――』

 ロビーの雰囲気を感じ取ったドミトリーは、油断なく立ち上がりながら言った。

『近くに見通しのいい場所はあるか?』
『見通し? すぐそこに錦糸公園がありますけど』
『そうか。まずはそこに行こう』

 そう言って、彼は立ち上がった。

      § § §

 ホテルを出て右へ折れ、錦糸町駅前の喧騒を抜けるとすぐ、左手に開けた場所が現れる。それが錦糸公園だ。
 
 四月後半の午後は、春の名残を惜しむ間もなく、辺りは初夏の気配に包まれていた。
 空一杯に広がっている雲の下、鳩が我が物顔で首を振りながら歩いている。

『もう少し早ければ、桜が綺麗なんですけどね』

 今年は例年よりも桜の開花が早く、それに合わせて花が散るのも早かった。
 ほんの数週間前まで薄桃色の花びらで埋め尽くされていた通りは、今や生命力に満ちた瑞々しい若葉が生い茂る通りへと姿を変え、花見の余波で少し痛んだ芝生は、早くもネットで囲われて、立ち入りが禁止されていた。

『少しタヴリーダ庭園に似ているな』
『タヴリーダ庭園?』
『サンクトペテルブルクにある、もう少しだけ大きな公園だ』

 もう少しすれば、緑が美しく輝き、白夜が訪れるらしい。

『ホライゾンブルーとサーモンピンクが混じり合う空が、やがてミッドナイトブルーへと変化していく様を、深夜芝生に寝転んで見上げたものだ』

 それは少年時代の思い出。短い夏の訪れを感じさせる体験だったそうだ。

『へー、行ってみたいですね』
『そのときは案内しよう』
『おお! お願いします!』

      § § §

 陸自のチームの協力を仰いだ内調のスタッフは、ステルス型超静音マルチコプターを導入していた。上空80メートルほどに滞空しているそれは、見上げたところでほとんど認識することは難しい。
 そこから超指向性のアレイマイクで会話を拾っていた。

「"I'd love to go there."!?」
「今のはなんだ? 符丁か?」

 装備の投入タイミングのせいで、途中からしか会話を拾えなかったチームは、二人のやり取りに頭を抱えていた。
 それはまるで、彼女が亡命することを希望して、彼がそれを受け入れたようなやり取りだったからだ。

「すぐに上に報告する。チームの増員が必要だ」

 彼は今すぐ増員可能なスタッフの心当たりについて考えていた。



      代々木ダンジョン 一層

「あれ? どうしました田中さん」

 御劔さんに誘われて、アイスレムと一緒に代々木ダンジョンの一階へとやって来ていた俺は、携帯に掛かってきた電話に首を傾げていた。
 最近はアルスルズに拘束される人間も減ったし、しばらく連絡を取っていなかった田中からの電話だったからだ。

「芳村さん。本日、三好さんは?」
「三好? 友達と食事に出かけてますけど」
「友達?」
「聞いたら驚きますよ。ミーチャ――ロシアのドミトリーさんですね」

 それを聞いて電話の向こうで田中が深く息を吐いた。

「芳村さん……」
「はい?」
「何のために、あなたたちに渡航禁止要請が出ていると思ってるんですか」
「ええ? 身の安全のため? でしょうか」
「そうです。なのに、ドミトリー=ネルニコフと二人で出かけた?」
「え? だって相手はドミトリーですよ?」

 ほとんど何が来たって返り討ちだ。彼の傍は、おそらく人類でもっとも安全な場所の一つだろう。
 仮に狙撃されたところで、カヴァスが付いてるからなんとかなるはずだ。実際、前回無事だったし。

「だからですよ!?」

 珍しく田中さんが声を荒らげている。
 相手ミーチャだから心配? あ!

「ああ、彼に襲われる可能性があるのか」
「何を言ってるんですか、何を! これで三好さんに亡命でもされたら、どれだけ国益が損なわれると思ってるんですか!」
「亡命? 三好が?」

 あの食いしん坊が、美食の都東京を離れて、新奇性や演出力には優れているが、それも一部に過ぎないモスクワやサンクトペテルブルクに行く?
 
 現代の日本人は、通常1日3回しか食事しないし、外食となれば頑張っても1日2回、きちんとしたレストランなら1回が限界だろう。2日に1度外食したとして1年間で回れるお店の数はざっと183件(*10)しかない。
 にもかかわらずミシュランの星付き店舗だけで東京には230軒もあるのだ。ビブグルマンもいれれば484軒。1年に1回行くだけでは星付き店舗は回りきれないありさまだ。ちなみにゴ・エ・ミヨには504軒が掲載されている。
 仮にロシアへ行ったとしても、一通り、現地の素敵ワインを飲み倒したら、平気な顔で帰国してきそうな気がするぞ。
 
 そもそも俺たち、今のところ全然国益に叶うようなことをしていないような気がするから、いてもいなくても同じような気が……

「いや、あいつは東京から離れないんじゃないですかね?」
「なぜです?」
「凄い数の一流レストランがありますから」

 そう言った途端、電話の向こうで田中さんがため息をつくのが聞こえた。

「それはともかく、今日の行き先をご存じですか?」
「確か、錦糸町のスカースカとか言ってましたよ」
「スカースカ!?」

 驚いたような田中の声に、スカースカってそんなにメジャーな店だったのかと、俺も驚いた。

「ご存じなんですか?」
「極東におけるロシアの活動拠点ではないかと疑われている店ですからね」

 ……ほんとかよ?

「いや、それはさすがに偶然――」

 と言いかけたとたん、電話が切れた。

「――酷くない?」

「どうしたんです?」

 アイスレムと一緒にコマ落ち動画のようなスライム狩りをしていた御劔さんが、心配そうに俺を見上げていた。

「あ、いや。三好のことでちょっと」
「三好さん?」
「いや、今日ね――」

 彼女に、今日の三好の予定と、今の電話の話をすると、笑いながら、「他国へ亡命するのに行き先を言って、本当にその場所に出かけるなんてありませんよね」と言った。
「ですよね。日本政府の心配性にも困ったもんだ。丁度いいから休憩しましょう」

 そういって、大きめのトートからキンキンに冷えたスポーツドリンクを二つ取り出して、一つを彼女に渡した。
 彼女は、少しだけ不思議な顔をしたが、だまってそれを受け取ると「ありがとうございます」とだけ答えた。
 
 トートの中のスポーツドリンクが、凍ってもいないし魔法瓶でもないのにキンキンに冷えているのはおかしいと言うことに、〈保管庫〉に慣れきっていた俺には気付けなかった。

      § § §

「内調より情報が来ました。どうやら二人の目的地はスカースカのようです」
「スカースカだと?」

 隊長01が口にした名前を聞いた部下02が、すぐにそれに答えた。

「以前ロシアの東京における諜報拠点ではないかとリストアップされた店ですね」

 ロシアの東京における諜報拠点だと見なされている店? そこに、三好梓がドミトリー=ネルニコフと連れだって訪れる?
 しかし、スカースカは駅の向こう側で、錦糸公園とは線路を挟んで逆方向だ。

「まさか、欺瞞工作か?」
 
 そう呟いた隊長は、小さく天を仰ぐと、「すぐに当日予約しろ!」と命令を下した。
 亡命はともかく、そんな場所で三好梓を拉致されたりしたら大変だ。大事にせずそんな行為を妨害しようとしたら、客として店に入り込むしかない。

「部署やうちの施設にある電話は使うな。何がなんでも席を確保するんだ」

 もしも拠点が本当なら、向こうだってプロだ。こちらの公開されている電話番号は押さえているだろう。
 とはいえ、予約なしで乗り込むと、席がないと断られる可能性がある。例え空いていたとしても予約席だと言われればおしまいだ。
 
 もしも、貸し切りだなどと言われたりしたら――
 
「まずいな」
 
 隊長は、上空から捉えた二人の様子を見ながら、そう呟いた。



      文京区 白山

 ニュートンのリンゴを後にした二人は、道なりに進み、世界で初めて裸子植物から精子を発見した際に使われた銀杏を見た。
 入り口にあったソテツの精子の発見は、世界で二番目なのだ。

「大きいけど、見た目はただの銀杏っぽいですね」
「そりゃそうですよ」

 世界で初めて裸子植物に精子を確認したと言うだけで、銀杏そのものになにか特別なものがあるわけではない。
 植わっている植物そのものにストーリーがあるだけだ。それを知らなければ、その辺に生えている木と変わるところはない。

「あ、でも手前の枝が、ちょっとお化けの手っぽくないですか?」
「木に貼り付く多脚の妖怪みたいだと言えばみたいですねぇ」
 
 そんな話をしながら、針葉純林をぐるりと回って南へ下ると、東大から移設された東京医学校の赤い建物が見えてくる。
 この建物は偽洋風建築(*11)の代表格で、本郷キャンパスの鉄門(*12)傍にあったものが、赤門の傍に移築され、その後ここへともう一度移築されたものだ。

 現在は博物館になっているその建物から、池の周りを進んでいくと、木々に囲まれた湧き水のほとりにその鳥居が現れた。

「なんですあれ? 滅茶苦茶怪しいんですけど……」
「次郎稲荷ですね」
「次郎稲荷? 太郎とかもありそうですけど」
「ありますよ。このちょっと先に」
「ええ? 三郎は?」
「さすがにそれはありませんね」

 小石川植物園ができるずっと前からこれらの稲荷はあったらしい。神社があるわけでなし、太郎次郎などという名称が元々のものなのかも分からない。
 そこに稲荷がある。今ではそれだけしか分からない、超怪しいスポットだ。

「ふーん」

 その鳥居の向こうには、怪しいシャープな狐の像があったり、法華系のお題目が書かれた石碑があったり、さらに崖の手前にある寂びた鳥居の向こうには、半分土に埋まった狐の像があったり、金属でできたまるで牢屋のようにも見える祠があったり、そこは怪しいことこの上ないアイテムの宝庫だった。

「ちょっと奥に行ってみません?」
「え? あ? うぇっ!?」

 そう言って佐山の手を取った涼子は、彼を引っ張って鳥居をくぐった。
 佐山は手を繋がれて目を白黒させながら、鳥居の先にある鳥居を見ていた。地面を削って作ったような参道めいた場所に、こんな鳥居があっただろうか?
 それはまるで、作られたばかりのように鮮やかな朱で――

「は?」

 手を繋いだまま固まった二人の前には、永遠に続くかのような鳥居の道がずっと続いていた。

      § § §

「なに、これ?」
「ミ、ミサキサマ……」
「え、佐山さん、ここをご存じなんですか?」

 ミサキサマをめぐる騒動は少し前から起こっていたが、政府からの要請で報道は差し控えられていた。
 もっとも、内部の様子は映像に残らないため、そもそも報道できる素材がない。結果、奇跡的にその要請は守られていた。
 JRA職員で、Dパワーズに近い佐山は、その情報を聞かされていた。

「Dカードが配られた後に発生したマイクロダンジョンだそうです」
「ええ? じゃあモンスターが?」

 何の準備もしていない涼子は道の前後を確認して、警戒を高めた。

「いえ、実は特殊なダンジョンで――」

 佐山は、ミサキサマについて自分の知っている内容を涼子に話した。
 彼女は、最初は緊張しながら、やがて興味深そうに、最後は目をキラキラさせながら言った。
 
「願いを叶えてくれるダンジョン!?」
「え? ええ、まあ……」

「佐山さん」
「はい?」
「楽園じゃないですか! 行きましょう! エリュシオンでもアヴァロンでもシャンバラでも!」
「ええ!?」

 黙って待っていれば自動的に元の世界に帰れることを知っている佐山としては、無理に願いを叶えに行って危険を冒すつもりはなかった。
 
 もちろん、死んでも蘇るなんて話も聞いてはいたが、それが全員に起こるのかどうかははっきりしない。
 蘇ってきたという体験談をいくら積み上げたところで、蘇らなかったものがいるかどうかは分からないのだ。

「だって、願いが叶うんでしょう? 一生に一度だけ」
「そう聞いていますけど、必ずって訳じゃないですよ」
「いいから、いいから。ここまで来たら行くしかないでしょ!」
「斎藤さん。不老不死なんて願うのはやめてくださいよ」

 さっき涼子が挙げた場所はすべて不老不死に絡む場所だ。
 彼女がそんな願いを持っているのだとしたら、なんとしても止めなければならない。なにしろ〈不死〉なんてスキルオーブには、スケルトンになってしまうような大きなペナルティがあるのだ。
 もしも願いが叶うとしても絶対に何かペナルティがあるはずだ。

「不老不死?」

 彼女は何を言っているのとばかりに小首を傾げた。

「それも面白いかな」
「やめてください!」

 スタスタと歩き始めた彼女を追いかけながら、佐山は煽ったような結果に内心頭を抱えていた。
 
「そういう佐山さんは、何か願いがないんですか?」
「願い? ですか?」

 お金――は、困らない程度にはある。
 以前なら〈森の王〉をなんとかして、研究者に戻ろうなんて考えたかもしれないが、今となってはこんな生活も悪くないと思っているし、誰に聞いても人生の成功という意味では今の方に軍配を上げるだろう。
 人生のやり直しなどできるはずもないし、彼女といえば――
 佐山は、目の前を歩く女性を見て顔を赤らめた。いや、彼女ではないけれど、ないのだけれど。
 
「佐山さん?」
「あ、いや、その……特にないです」
「ええ!?」

 これが草食系ってやつ!? と涼子は驚愕していた。

「ともかく、図らずも来てしまったんですから、最後まで楽しみましょう!」

 まるで楽しみにしていた遊園地のアトラクションに向かうかのように、彼女は歩みを速めていた。



      墨田区 錦糸4丁目 錦糸公園

『アズサ、どうやらヒモが付いている』

 錦糸公園の遊具広場の端を歩きながら、ドミトリーがそう言った。

『監視は、ミーチャならいつものことなんじゃないですか?』

 その返事を聞いたドミトリーは、にやりと笑って、三好の手を取ると、『逃げるぞ』と言い出した

『ええ? それって何か誤解を招きません!?』

 ドミトリーは、すぐに木で視線を遮るような位置に移動して、走り出した。

      § § §

『ボリス11。木に遮られてドミトリーたちがよく見えません。プリヨーム』
『ボリス12。こちらも同様です。近づきますかまさか、何か話が付いたのか? プリヨーム』
『アンナ10。ワリーシ10、公園の反対側の出口へ急行して見張れ。プリヨーム』
『ワリーシ10。ポーニャル。カニェーツ・スヴャージ』

      § § §

 そのころ上空から監視を継続していた、内調のチームが異常を察知していた。

「ドミトリーがワイズマンを連れて走り出しました」
「なんだと?」
「見事な位置取りですね。ロシアの監視チームの位置を把握して、木の幹で視線を遮っています」
「あの男は探索者だろう?」

 その動きは、まるで歴戦の軍人のようだった。

「だが、なぜロシアの監視を振り切ろうとする? ワイズマンを連れ去るのなら、そんな行動に意味は――」
「もしや亡命を希望しているとか」
「こんな場所でワイズマンにあって、突然亡命を始める? 日本に亡命者が飛び込むような場所などないぞ」

 通常は身を守るなら交番や警察署だが、交番に外国人が飛び込んできて亡命を希望しても、一般的なレベルの交番では、全員がポカーンだろう。
 警官も不要な面倒に巻き込まれたくないだろうし、その後連れ戻しに来た連中に騙されて、笑顔で見送りかねない。

「とにかく公園から出て、行方をくらまされたら面倒だ。公園外周と内部に人員を投入しろ」

      § § §

『ちょっ!? ミーチャ! まずいです。まずいですって!』

 いきなり走り出した彼に、図らずもついて行けるのは、芳村の行動についていくため、三好がAGIにステータスを振っているからだ。
 しかしここで、監視から逃げ出すのはまずい。一体どんな誤解を招くか分からないからだ。
 
 ドミトリーは、自分の行動に付いてこられる彼女を見て驚いていた。あわよくばお姫様抱っこで――などと考えていたのかどうかは分からないが。
 
 公園の周囲や後方では、慌ただしく状況が動いている。
 三好がちらちらと確認する限りでは、人の流れも移動速度を増しているようだった。
 ドミトリーは彼女の気も知らないで楽しそうにしていた。

『なんだかドゴニャールキを思い出すな!』
『なんですかそれは!』
『鬼が相手を追いかける子供の遊びだ!』
『日本じゃ鬼ごっこって言いますね!』
『鬼に捕まったやつは、捕まった場所で「お茶、お茶、助けて!」って言うんだ』

 三好は、走りながら噴き出した。ルールとしては、日本のこおり鬼とほとんど同じだが、どうしてお茶に助けを求めるのか全然分からない。
 ロシア語だと「チャーイ・チャーイ・ヴィルチャイ」と言うようだから、語呂がいいだけなのだろうか。「ずいずいずっころばし」の「ごまみそずい」みたいなものか。

『よし! あれがゴールだ!』
『ゴール?』

 いつまでも逃げて遊んでいたら大事になることはドミトリーも分かっている。
 冗談で済む間に、終わりを用意しようとしたのだろうが、三好はそのゴールに見覚えがあった。

『ミサキサマ!?』

 なんでこんなところに都合良く鳥居が! いや、あるけれども。錦糸公園の敷地内にも千種稲荷神社があるけれども!
 千種稲荷は西側に、その鳥居は、公園の東側にあったのだ。北斎通り沿いの東側に鳥居なんてなかった。今までは。

 ばらばらと周囲から駆け寄ってくる気配がする。
 それと競うようにして、ドミトリーが三好の手を取ったままその鳥居に飛び込んだ。弾むような『ゴー――』の声と共に。
 しかしその声は途中で切り取られたかのように、後には続かなかった。
 
「あー、やっぱり……」

 息を切らせた三好は、手で顔を覆って下を向いた。
 一度鳥居をくぐっている三好は、そのまま鳥居の反対側へ通り抜け、ドミトリーは――

『消えた!?』

 追っていたグルーパ・ボリスの報告を受けたとき、サーシャは大きな驚きを感じなかった。その現象をよく知っていたからだ。
 それは監視対象になっている眼下の家の庭で、頻繁に見られる謎だった。



      文京区 白山

「どうやら最終地点のようですね」

 しばらく歩いた鳥居の参道の先に、広場のようなものが見えた。

「願い事しながら、あそこに足を踏み入れると、願い事が書かれた木札が現れて、願いが叶うと文字が消え、叶わないと黒く塗りつぶされるってことですね」
「そうです。願い事によっては、モンスターが現れたりするみたいですし、その場で叶わず木札と共に帰還することもあるみたいです」

 宝くじの1等の当選を願った場合、実際に当たるまでは、木札はそのままだったそうだ。
 当選結果が決定したとき、当たると文字が消え、外れると黒くなる現象が確認されていた。

「それで――一体、何を願うんですか?」
「うーん。内緒!」
「ええ……」
「佐山さんは?」
「全然何も考えていませんでした……」

 道すがら、涼子の翻意を促すことに集中していたため、自分の願いのことなんか一つも考えていなかったのだ。

「ほら、じゃあ今すぐ考えて。一緒に行くましょう!」
「えーっと、願い、願い……」
「さん!」

 そう言って、涼子は佐山の手をぎゅっと握った。

「ええ!?」
「にー!」

 繋いだ手を後ろへと振り上げる。

「ちょ、ちょっと待って!」
「いーち!」

 そして涼子は、その手を振り子のように振って、ジャンプした。
 佐山はそれに引きずられ、蹈鞴を踏むようにして広場へと踏み込んだ。

 ドーンという太鼓の音が二重に聞こえ、それぞれ二人の前に光が収束して木札が現れる。
 そうして――

「あ、あれ?」

 佐山の目の前には、牢屋のような祠と、さびた鳥居と、半ば埋まっている狐の像があった。
 隣には涼子がいて、足元には、自分の願いが書かれている木札が落ちていた。
 佐山は、慌ててそれを拾い上げた。

 ふと見ると、彼女の手にも木札があり、何かが書かれているようだった。

「どっちも遅延型みたいですね」

 そういう彼女の顔は少し赤らんでいたようだった。
 まあ、異常な体験だったしなと佐山が思ったところで、閉館を案内するアナウンスが流れた。
 ここの閉館時間は16:30と少し早い。なにしろ園内にはほとんど明かりがないので、これ以上遅い場合、気が付くと真っ暗になって、懐中電灯でもなければまともに移動することもできなくなるのだ。

「じゃあ、そろそろご飯に行きましょうか」
「え? あ、そうですね!」
「今回はちゃんと予約しました!」

 と胸を張った佐山だったが、涼子は、植物園を歩き回った格好で行くってところが、なんとも抜けていて面白い人ねと考えていた。

 レストランまでのタクシーの中で、手持ち無沙汰だった佐山はもう一度願いについて聞いたが、涼子は教えてくれなかった。
 涼子は、お返しに佐山のお願いを尋ねようとしたが、すんでのところで思いとどまった。もしもそれを見せられたら困るからだ。
 
 実はあの時、彼女は地面に落ちた木札を見ていた。
 そうして、その木片に何が書かれていたのかを思い出すと、もう一度顔を赤らめた。
 
 それには、『涼子さんが、悔いなく力を発揮して、無事コロンビアから戻ってきますように』と書かれていたのだ。

「ま、いい人には違いないよね」
「え?」

 小さく呟いた言葉が聞こえなかった佐山は、不思議な顔をしたが、彼女はにっこりと笑ってごまかした。
 そうしてタクシーのシートに背を預けると、眠るように目を閉じた。



      墨田区 錦糸4丁目 錦糸公園
 
『いや、だから誤解! 誤解ですって』

 三好の目のまでは、ロシアの情報部だと思われる人間と、内調か陸自の人間だと思われる人間がにらみ合っていた。
 御苑のように、いきなり発砲されないだけましというものだが、公園を歩く人たちが遠回りするくらいには、緊張感が漂っていた。
 
 何しろ三好の家では、諜報機関の人員が今回と同様に蒸発する事例が多発している。
 不審を抱かれても仕方がないのだ。

『誤解? ならドミトリーはどこへ?』
『どこって……異世界?』
『は?』

 何を言ってるんだこの女はという目つきで三好を見るロシアの男に、彼女は、ミサキサマについて必死に説明していた。
 
 JDAはミサキサマをマイクロダンジョンと認め立ち入りを禁止したが、その詳細については公開していない。
 そして、JDAの注意勧告以降、ミサキサマへの許可のない侵入は建造物侵入罪に問われるため、積極的な犯罪自慢は影をひそめていた。
 
 しかし、日本のSNSのログをあされば、信じがたい世界が広がっていた。
 各国のオシントもその情報はキャッチしているだろう。信じるかどうかはともかく。
 
『なら、こいつはミサキサマとか言うマイクロダンジョンの入り口で、ドミトリーは今そこにいると?』
『そうです!』
『どうやってそれを証明する?』
『放っておけば一時間もしないうちに出てきますよ!』

 三好の主張に懐疑的なロシアチームだったが、その程度の時間ならと、夕暮れの錦糸公園の隅で屈強な男たちのにらみ合いが続いていたのだ。
 そうして、わずかに十数分後、ドミトリーは消えたときと同様、忽然と現れた。

『ドミトリー!』
『あ? ああ、戻ってきたのか』
『一体どうなってるんだ!?』

 サーシャの問いに、彼は背筋を伸ばしながら答えた。

『いや、気が付くと、鳥居がずらっと立っている道の真ん中にいたんだ』
『なんだって?』

 彼は三好の方を見た。
 どうやら彼女の説明は本当のようだった。

『予約時間も近づいてきたから、とにかくここから脱出しようと前に向かって走っていたら、道が途切れたところで和太鼓の音が響いて、目の前にこれが現れたんだ』

 そうして彼が見せてくれた木片には、「Мне нужно поскорее пойти в «Сказку».」と書かれていた。
 それを見た、ロシア側の人たちが微妙な顔をしていた。
 
「あれ、なんて書いてあるんです?」

 三好にそう訊かれた日本側の人間が「私は早くスカースカに行かないといけない」と直訳してくれた。
 それを聞いた三好は、思わず吹き出すと、ドミトリーに向かって、『じゃあ行きましょう』と言うと歩き出した。
 
 その場にいた人間は、誰もが、「ええ? この状況で食事に行くわけ?」という顔をしていたが、今日はロシア料理を食べる日なのだ。
 その予定に勝るものなどどこにもない。

      § § §

 ロシア側はドミトリーが亡命しなければいいし、日本側はワイズマンが連れ去られなければそれでいい。わざわざ争いに発展させるのも馬鹿らしいし、事ここに至っては、隠れる必要もないため、結局この大人数がそのままスカースカに押しかけることになったが、半分は入店を断られた。

『ロシア料理って、どうやって食べればいいんですか?』

 前菜(ザクースカ)として提供されたニシンの塩漬けやピクルス、スプーンの上に思ったよりもたっぷりと乗せられたキャビアをつまみ、郷に入れば郷に従えとばかりに、三好がショットグラスで提供されたウォッカをちびちびとなめながら訊いた。

 何しろ世界には手づかみで食べるのが正式な作法の食事だってある。
 現代ではさほどやかましくないし、日本の一流店なら、食事は楽しく食べられるのが一番だという意識が通底していて、よっぽど馬鹿なことをやらかさない限り大抵の要望には応えてもらえる。フレンチの店にだって箸の用意はあるのだ。
 それでも、試してみたいのは性というものだ。

『普通だ。大抵はフレンチやイタリアンと同じようなものだ』
『へー、ピロシキなんかは手づかみで食べても?』
 
 次に出てきたスープに添えられていたピロシキを指差しながら三好が尋ねた。
 スープには新鮮な野菜が大量に入っていて、スイバのような葉も見える。ドミトリーが、ゼリョーヌィエ・シチーと呼んでいたこのスープは、季節の定番のもののようだた。
 
『もちろんだ。カトラリーが付いている場合は使うこともあるが、大抵は手づかみで構わない』

 それを聞いた三好は、焼きピロシキをパキパキと割って、立った湯気に向かってふーふーと息を吹きかけた。

『他にもスイーツ系のブリヌイは手づかみで食べることもある。スョームガやクラースナヤ・イクラーを使ったものはカトラリーを使うな』
『へー』
 
 ブリヌイは一種のクレープだ。
 スョームガはアトランティックサーモンのことで、ロシアでは、ちょっと高級なサケを意味している。
 クラースナヤ・イクラーは、その名の通り赤い魚卵で、日本で言うイクラのことだ。

『ガレットっぽいですね』
『そうだな。ほとんど同じだ』

 二人の様子を隣の席で見ていたサーシャは、『本当に飯を食ってるだけ……なのか?』と困惑していた。

『今の季節だと、サンクトペテルブルクでは、ちょうどユーリシュカが食べられるな』

 ユーリシュカはサンクトペテルブルクで広く食べられている魚で、どうやら樺太ししゃものようだった。
 残念ながら日本では秋から冬にかけての魚だ。

『季節になると、各レストランには『ユーリシュカが来たぞ!』みたいな看板が並ぶんだ』
『なんだか冷やし中華かかき氷みたいですね』

 メインに、ペリメニが出てくと、ドミトリーはそれをフォークで刺して、『ペリメニは一口で食べる』と言いながら、大きく開けた口にそれを放り込んだ。

『なるほど』

 それを聞いた三好も、それをフォークで刺すと、『ペリメニは一口で食べる』と繰り返しながら、バカみたいに口を開けてパクリとそれを食べた。
 それがなんだか面白くて、笑顔になると、もっちゃもっちゃと口の中のペリメニを咀嚼した。

「あいつらは一体何をしてるんだ?」

 内調のテーブルでは四人の男が、二人のやり取りに呆れたような顔を向けていた。

「いや、もしかして『ペリメニは一口で食べる』が何かの符丁だとか……」

 だが言った本人も、「ないな」と思ったのか、クワスを飲んで「なんだこれ?」と、その味に顔をしかめた。
 こうして錦糸町の夜は更けていった。



      エピローグ

「今日はどうもありがとうございました」

 アイスレムを利用した新方式は、確かに超効率的だったが、俺たちは適当なところで切り上げて、YDカフェで御劔さんと夕食を食べていた。
 
 もっと気の利いたお店もと考えてはみたのだが、今から着替えに帰って、再び出かけるというのもなんだか間抜けだ。
 ダンジョンの装備でも違和感のないYDカフェは、こういうとき便利な存在なのだ。意外とおしゃれだし。

「いや、俺も暇してたから、誘ってもらって嬉しかった」

 そう言うと彼女は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、またお誘いしても?」
「もちろん」

 三好に見られたら、また「高校生か!」と馬鹿にされそうな会話だが、今はこれくらいが丁度いいだろう。
 将来のことは分からないが、今はこれで。

 いつものように、毒にも薬にもならないフツーとしか言いようのない無難な味のセットだったが、今日の料理は、なんだか少し美味しいような気がしていた。

      § § §

「おーい、中島。コーヒ……」

 翠がドアを開けると、中島は口を開け上を向いて、椅子の上で寝息を立てていた。口の端しから少しよだれがこぼれている。

「器用な奴だな」

 先日行った、ブカレストのROMMEDICAでは、国際医療機器展であるにもかかわらず、ダンジョンデバイス関連の問い合わせが多かった。
 もちろんメインの医療ポッドも、それなりに注目を集めたのだが……
 
 こいつが設計の中心にいると知られたせいで、世界中から引き抜きの話が殺到していたようだ。
 中には、目の玉が飛び出すような条件を提示するような国家規模の組織もあったようだが――

「あの条件を蹴飛ばすとは、バカなやつ」

 そう呟いて、眼鏡に掛かっていた前髪をそっとなでた。

「みどりー。へへへへへ」
「んん?」

 なんだかあられもない夢を見ているのか、スタッフには聞かせられないような妙な寝言を口走っていた。

「……男ってやつは、ほんとバカだな」

 翠はそう言いながら、冷たいコーヒーの缶を、上に向いている中島の額の上に載せた。

「んごっ?」
「ほら、コーヒー。寝るなら帰れよ」
「ええ? 泊めてくださ――」
「仮眠室はあちら」

 そう冷たく言って部屋を出た翠は、後ろ手にドアを閉めると、赤くなった頬に手を当てた。

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*1) 引っ張り回した
10巻のSSで、そういうイベントがあったんです。

*2) ダーウェント
2019年2月に、同動物園のメイディーナが亡くなったため、当時国内で見られる唯一のタスマニアデビルだった。
2023年1月に没したが、現在では2024年3月にワイティーとパピティの二頭が公開された。
なお、胸の白線がなくて腕の白線だけでYっぽい模様なのがワイティーだ。分かりやすいね。

*3) スカースカ
Skazka じゃありませんよ。Сказка、ですよ。
スカズカじゃありませんよ、スカースカですよ!(重要)

*4) デーティング文化
付き合う前に、取りあえずお試しでデートしてみる文化。
何度か食事に行くくらいの間は、他の人と同じことをしても問題がない。
体の相性がお試しに含まれるかどうかは個人の思想によるため、付き合い始めのサインは極めて曖昧で、恋愛トラブルが多いのは大体これのせい。

*5) ドゥラーク
ロシア語で意味は「バカ」
ロシアで一番遊ばれていると言われるカードゲームで、非常にシンプルなルールですぐに遊べるようになるのだが、それに反して細かいローカルルールがありすぎて泣ける。
ドベを決めるという点ではババ抜きみたいなものだが、負けたやつは「バカ」と呼ばれる。酷くね?
なお、結構面白い。

*6) 800円
この年(2019)の11月に、温室がリニューアルオープンし、500円/人になった。

*7) 停車
通常、タクシーの支払中は乗り降りの一連の動作に含まれるため何十分止まっていようが停車と見なされる。したがって駐車禁止の場所でも問題ない(駐停車禁止の場所はだめです)
メーターは上がり続けるが、走っているよりはずっと上がり方は緩い。問題はタクシーのドライバーが嫌な顔をするかもしれないことだが、5分程度なら付き合ってくれるドライバーは多い。

*8) ドミトリーが?
なんか滅茶苦茶失礼なことを言ってる気がする。

*9) チョールヌイ
「黒い」を意味するロシア語の形容詞。
チャイ(茶)が男性名詞なので、チョールヌイとなっている。後に続くのが女性名詞ならチョールナヤ、中性名詞ならチョールナエとなる。
後に出てくるクラースナヤは「赤い」を意味する形容詞だが、後に続くイクラーが女性名詞なのでナヤという語尾変化になっている。

*10) 183軒
2019年度版。以下数値は全部2019年度版準拠。
ミシュランの2019は、2018年の11月に、ゴ・エ・ミヨの2019は、2019年の2月に発売された。

*11) 偽洋風建築
西洋建築が日本に入ってきたとき、日本の大工さんがその構造を理解しないまま和の技法で洋風の館を建てちゃったことから生まれた建築物。

*12) 鉄門
本郷キャンパスにある門。
かつては東大の正門で、東大医学部の代名詞だった。なにしろ医学部医学科の同窓会組織の名称は「鉄門倶楽部」なのだ。
一度撤去されたが、医学部創立150周年(2006)を記念して再建された。


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