“24hours of Sweet Lovers”
【朝】【昼】【夜】それぞれの溺愛シーンを描いたショートストーリー、
ぜひお楽しみください。
「リザ、入るぞ」
エルランドが、酒を満たした杯を乗せた盆を持って夫婦の居間に入った時、リザは暖炉の前の敷物に直にうずくまっていた。
こちらに背を向けて、熱心に何かを書きつけている。
時刻はもうすぐ日づけが変わる頃あいで、部屋は暗いが、暖炉と彼女の周りだけが温かく照らされていた。
辺境の秋はますます深まり、窓の外では風が冬を呼んでいる。厳しい季節の到来だ。
気配に振り向いたリザの顔が輝いた。きっと自分も同じだろう。会うのは五日ぶりなのだ。
立ち上がり、夫の胸に跳びつこうとしたリザの足が止まる。このままでは盆をひっくり返すと思ったのだろう。膝から滑り落ちた筆が、エルランドの足元まで転がった。
「エル!」
「待っていてくれたのか? こんなに遅くまで」
筆を拾い上げ、酒の盆を敷物の上に置くと、エルランドはリザに応えるため、両腕を広げた。
「おかえりなさい!」
瞳を煌めかせてリザが胸へ飛び込んでくる。
エルランドは軽い体をふんわりと抱きしめた。小さくとも暖炉で温まった体は抱き心地が良く、まるで湯たんぽのように男の体と心を解してゆく。
「ただいま」
口づけは、たっぷり呼吸五つ分。
「……お迎えに出られなくてごめんなさい。気づかなかったの。どうして誰も教えてくれなかったのかしら?」
唇を解放されたリザは、首を傾げて尋ねた。
「遅くなったし、みんなリザを休ませたかったんだろう……よっと!」
エルランドはひょいと妻を抱え上げると、暖炉の前の敷物に直接腰を下ろし、組んだ足の上に小さな腰を乗せた。ついでに酒の盆も引き寄せる。
「東の村の視察はどうだった?」
「ああ。今年は盗賊のうわさも聞かないし、作物の出来高も例年並みで、皆満足している。安心して冬を迎えられそうだ」
「よかった。こちらも変わりはないわ」
辺境イストラーダの治安は、目覚ましくよくなってきている。
地方が安定すると、街道筋も平穏になり、人と物の交流が増加する。領主エルランドの功績だが、その裏には年若い妻の健気な活躍があった。
「お城のみんなは、とても働き者よ。城門の跳ね橋の修理や、たくさんある暖炉の煤払いも、みんな率先してやってくれたの」
「それはリザがなんにでも頑張るからだろう。今日は何をしてた?」
「そうね。鹿肉の燻製の作り方を教えてもらった。煉瓦の室の中に、お肉の塊を吊るしてから、香りのいい木くずを燃やして煙をたっぷり吸わせるの。すると、日持ちのする燻製ができるのですって。私も木くずを砕くのを手伝ったのよ。鑿はまだ使わせてもらえなかったけど、木槌で叩くのは上手だって言われたわ!」
役に立てたことが余程嬉しかったのか、リザは身ぶりも入れて説明する。王都の離宮で隠れるように暮らしていた彼女には、冬支度の何もかもが珍しく、楽しいのだろう。
「なるほど。だからほんのり煙のにおいがするんだな」
「えっ⁉ お風呂でよく洗ったのに……まだ臭いかしら? ごめんなさい」
リザはエルランドから身を離そうと腰を浮かせかけたが、それは叶わなかった。エルランドはつややかな黒髪に顔を埋め、ますます深く妻を搦めとる。
「……いい香りだ。冬の夜にあぶって食べる、鹿肉の燻製はごちそうだからな。だが、俺が知りたかったのは、今、リザが何をしてたかってことなんだ。どれ」
リザが座っていた場所には画帳が投げ出されていて、そこにはたくさんの花や小鳥、動物が描かれていた。
「これは?」
エルランドはリザを抱いたまま、膝の上に画帳を広げた。
「新しく陶器に描く図案なの。なかなか決まらなくて……」
リザは難しい顔で画帳を見つめている。
陶器は、この辺境イストラーダに新しく生まれた産業の一つだ。ここで作成された陶製品には、領主夫人の手による絵柄が描かれ、都や外国に輸出されて、辺境の財政を潤している。今ではたくさんの村娘たちが、リザに絵を習って筆を取り、厳寒期でもできる産業の担い手となっていた。
「働き過ぎではないか? あなたが体を壊してしまったら、元も子もない」
「ありがとう。でも働くのは楽しいの。つい最近まで何もできなかったから」
「けれど、ほどほどにしてくれ。これからしばらくは二人で過ごそう」
「あら、次の視察まで間があるの?」
「二日ほど。俺と共に行ってくれる兵士たちにも、家族と過ごす時間を与えてやりたい」
「ああ、そうね。いいご領主様だわ、エル」
「そうか。なら褒美をくれ」
エルランドは、持ってきた杯をリザに手渡した。中には果汁で割った酒が入っている。ちなみに彼の酒は薄めてなどいない。
「ほら、甘いぞ」
「うん……あ、美味しい。これなら飲めるわ」
果実酒を飲み干したリザは、ため息とともに夫の胸に寄りかかった。
杯を置いた指に、インクの染みがついているのを見つけたエルランドは、その指先を口に含む。
「汚いわよ」
「酒よりこっちのほうが美味い」
働き者の指先を口に含む。舌先で舐めているうちにインクは薄まり、反対にリザの吐息は濃く甘くなっていくのがわかった。
「綺麗になった」
エルランドは、桃色に染まった指先を暖炉に翳した。
「いじわる……」
ほんの少し潤んだ瞳は、今は黒く炎を映している。この瞳が青く輝くのは、陽の光を吸い込むときだけである。
「心外な。いじわるなのはリザのほうだ。ちっとも俺に構ってくれない」
「構っているわ。夕べも無事で早く帰ってきてって、お祈りしたもの」
「それはありがたい……俺も夕べ、こうすることを思い描いていた」
すっぽりと覆い隠せる小さな体は、かつての痩せっぽちの少女ではもうない。本人が自覚しない、さりげない色香が滲み出ている。
「リザ、口づけを」
返事を待たずに覆い被さっていく。白い毛皮の敷物に黒髪が散らばった。
大きな瞳が彼を見上げ、それからゆっくりと伏せられた。
以前は、エルランドから口づけをすることが多かった。しかし、最近はどんどん女らしくなるリザを前に、自分が甘えてしまう。口づけを、それ以上をと、強請ってしまう。
揺れる炎が、二つの影を背後の壁に鮮やかに映し出した。
エルランドは、懸命に自分の求めに応じるリザから目が離せない。八つも年下の娘に翻弄されているのは、実は彼のほうなのだ。
王による理不尽な婚姻の後、行き違いがあったとはいえ五年も放置し、縁が切れる寸前で捕まえた妻。
やっと手に入れたと思っても、広い辺境の統治は厳しく、常に側にいてやれない。
それなのに、王妹であるこの娘は、不平という概念がないのだ。リザにとって、耐えることは日常で、その中で常に自分にできることを探している。
離宮で捨て置かれていた昔も、エルランドの妻となった今でも。
最初、擦り合ったり触れ合ったりするだけの口づけは、どんどん深くなり、エルランドの忍耐の容量は溢れる寸前となっていく。
「あっ!」
突然リザの瞼が見開かれる。その瞳には、先ほどと違う光が宿っていた。
「どうした!」
「できた! できたわ!」
「お、おい、リザ、なんの話だ? なにができた?」
もぞもぞと夫の重みから這い出たリザは、放りっぱなしだった筆を拾うと、いそいそと画帳をめくり、墨壺に浸した。
「思いついたの! 新しい図案を!」
暖炉の前に突っ伏して筆を走らせるリザは、もう夢中である。
「り、リザ?」
「ごめんね、エル。今なの。今でなくてはいけないの! あ……でも、これじゃあ図案にならない。もっと簡単に、でもわかりやすく……」
寝間着のまま、リザはどんどん筆を滑らせていく。
「横顔、そうだわ! 横顔がいいわ! 見つめあって……でも何か足りないな……」
――やれやれ。こうなると、もう手がつけられない。俺の奥さんは。
久しぶりの甘いひとときを一旦諦めたエルランドは、リザの集中を乱さないように、背後から画帳を覗き込んだ。
そこには、見つめあう二人の男女の横顔が描かれている。
表情は描かずにシルエットだけだが、二人が愛しあっていることはよく伝わる。おそらく、先ほどの口づけから思いついたのだろう。
――だとしたら、まんざらではないな。
ぱちりと薪が爆ぜる。
「できた! これでどう?」
リザは、幾通りか描いた意匠から、一番簡単で、意味がよく伝わるものをエルランドに示した。
それはハート模様に絡んだ蔦の中で向かい合う男女のシルエットだった。押しつけがましはなく、それでいて愛らしい。
「いいな。よく描けている」
「ほんとう?」
「ああ、すごくいい。これは俺たちの象徴だ。早速この図案を描いた、陶器のセットを作らせよう。カップや皿に描こう。きっと国中の恋人たちが欲しがるぞ」
「まぁ……素敵。そうだといいな。私もっと役に立ちたい」
リザは、エルランドの胸に頬を乗せながら画帳を眺めた。
「そうか、それじゃあ次は」
エルランドがリザを抱えたまま立ち上がる。寝間着からはみ出した素足が宙で、ふるんと揺れた。
「俺を見てくれ。ずっと待っていた俺を褒めて、温めて包んで慰めて欲しい」
エルランドは言い放ち、まるで誰にも盗られたくないごちそうを隠すように、リザを寝台に運んだ。
風が窓を叩く。夜はまだ長い。
辺境にはじきに、一年で一番厳しい季節がやってくる。
その前に、与えあう温もりを確かなものにしておかなくては、とエルランドは思った。
――二人なら、どんなに厳しい冬にでも立ち向かっていける。
「こんなに楽しみな冬は初めてだ、リザ」
そうして、妻に飢えた夫は、ようやく柔らかい体を抱きしめたのだった。