“24hours of Sweet Lovers”
【朝】【昼】【夜】それぞれの溺愛シーンを描いたショートストーリー、
ぜひお楽しみください。
その朝は、なぜだかいつもよりもかなり早い時間に目が覚めた。
もう一度眠ろうと、ブランケットにくるまり目を閉じてみるけれど……眠気は全く戻ってこない。
(うーん……。もう起きちゃおうかな)
二度寝を諦めた私はベッドから降り、カーテンを少し開けて窓の外を見てみる。すると、庭園にはうっすらと朝霧がかかっていた。淡い陽の光に柔らかく照らされ、葉の上の露がきらきらと輝いている。
(……素敵……)
あまりにも美しい光景にうっとりし、自然と笑みが漏れる。
(せっかくだから、少しだけ庭園をお散歩してみようかな)
そんなことを思いつくとなんだかわくわくしてきて、私はそのままクローゼットへと向かった。
つい先日までは、このハリントン公爵邸でメイドとして働いていた。そんな私は、今ではこのお屋敷の当主、ロイド・ハリントン公爵の婚約者という立場にある。けれどここでお世話になる以前は、私は母方の縁戚の屋敷で使用人として朝から晩まで働いていた。ピンクブロンドの髪を染め粉で真っ黒に染めるよう命じられ、食事を抜かれ、暴力をふるわれながら……。
そんな境遇にいた私だから、自分の身の回りのことは一通り何でもできる。簡単な身仕度なら、専属メイドのアマンダさんをわざわざ起こしてまで手伝ってもらう必要はない。
淡いミントグリーンのデイドレスを選び着替えると、髪を梳かして整える。ロイド様との朝食の前に、アマンダさんにもう一度ちゃんと結ってもらおう。
扉を開けて廊下に出ると、屋敷の中はまだ静かだった。使用人たちの姿もまばらで、それぞれが持ち場の準備を始めているようだ。私はそっと階段を降り、扉を抜けて庭園へと足を踏み出した。
朝の空気はひんやりとしていて、頬を撫でる風が気持ち良い。花々の甘い香りがほのかに漂ってきて、私はゆっくりと深呼吸をした。
足元には朝露を含んだ芝生がしっとりと広がっている。その間の小道を一歩ずつのんびりと歩きながら、近くの白薔薇を眺めた。
朝日を浴びた花びらはうっすらと透け、先端についた水滴が光を受けて小さく揺れている。
「……綺麗……」
思わずそんな声が漏れた。そっと手を伸ばし濡れた花びらに触れると、ひんやりとした感触がした。
静かな早朝に一人きりでゆったりとした時間を過ごす贅沢を噛みしめながら、ふと、以前の自分を思い出す。まだメイドとして働いていた数ヶ月前まで、私はよくこの庭園に足を運んでいた。アマンダさんや他のメイド仲間と一緒に、朝食のテーブルや各部屋に飾るための花々を摘みに来たり、落ち葉の掃き掃除をしたり。お仕事の合間には、ここで皆といろいろなお喋りをしたっけ。
(ふふ……楽しかったな。私を救ってくださったロイド様のお役に立てるようにと、毎日めいっぱい働いていたわよね。最初はメイドの一人として。そのうちに、ロイド様の身の回りのことをお手伝いする、お世話係の役目まで……。それがまさか、こんなことになるなんて。今でも不思議な感覚になるわ)
ロイド様の婚約者となった今、あの頃とはまるで世界が違って見える。
ご恩返しのためにとあの方に仕えていた私は今、彼の隣に並んで立つ者として相応しくありたいと願っている。淑女教育から家政の切り盛り、そして領地経営についてまで、がむしゃらに学ぶ日々だ。これまでとは全く違う責任感とプレッシャー、そして慌ただしさを感じながらも、充実した毎日が楽しくてしかたない。
そんな日々の中、この庭園の美しさだけは以前と何も変わらないのだ。
(……なんだか夢みたい)
目まぐるしい自分の人生を振り返りながら、私はうっとりと朝の空気に身を委ねる。その後もしばらく散策を続けたり、物思いにふけっては佇んだりしていた。
すると──。
「……ここにいたのか、ミシェル」
背後から静かに声をかけられた。私ははっと我に返り、振り返る。
「ロ、ロイド様……っ!」
私の大切な婚約者様が、朝の光を受けこちらに向かって歩いてくる。いつも通りのきちんとした身なりだけれど、ほんのわずかに前髪が乱れている。
「朝食の時間になっても君が食堂に現れないし、アマンダには『今朝はまだ姿を見ていない』と言われてね。少し焦ってしまったじゃないか。探したよ」
(……えっ? 朝食?)
そんなにも時間が経ってしまっていたとは。たしかによく見ると、奥の方で何人もの庭師たちが朝の仕事を始めている。さっきまでは見回りの護衛の姿しかなかったのに。
「も、もうそんな時間になっていたのですね。すみませんロイド様……っ!」
慌てて謝ると、ロイド様はほっとしたような柔らかな微笑みを浮かべた。朝の光が、彼の艶やかな銀色の髪を照らしている。
「いや、構わない。ようやく見つけられて安心した」
(……そんなに探してくれていたんだ……)
心配をかけてしまった後ろめたさから、私はつい言い訳めいた言葉を口にする。
「その……、今朝はかなり早く目が覚めてしまって。お部屋から見た庭園があまりにも美しかったものですから、何となく……少しお散歩してみたくなって……。本当にごめんなさい。もう少し早く戻るべきでした」
いたずらが見つかった子どものようにもじもじしていると、ロイド様がくすりと笑う。
その青く澄んだ瞳に、深い愛情を滲ませながら。
「別にいい。そんなに気にすることではない。だが朝食の席で君の姿を見ないことには、私の一日が始まらないからな」
「……っ」
急にそんな優しいことをさらりと言われたら、心臓がもたない。頬がじんわりと熱くなり、私は思わず彼から視線を逸らした。
するとその先には、陽の光を浴びて咲く白薔薇たち。
さっきまで一人で見ていたその花々が、なぜだか今は一層鮮やかに感じられた。
「……ね、ロイド様。朝の光の中で見る白薔薇って、とても綺麗ですね」
私がぽつりと言うと、ロイド様も花々を見つめる。そして私に向き直り、静かな声で言った。
「ああ、そうだな。朝日を浴びた今の君の方が、はるかに美しいが」
「っ!? ロ、ロイド様っ……!」
「ん?」
前触れもなく甘い言葉を囁かれどきまぎする私とは裏腹に、ロイド様は涼しい顔をしている。
「もう……朝からそんなことばかりおっしゃるのは、反則です……っ」
拗ねたようにそう言って俯くと、隣で彼が小さく笑う気配がした。
「なぜだ? 君にこの想いを打ち明けて以来、私は毎日愛を伝えているつもりだが。……いつまでも初心だな、君は。そういうところも、たまらなく可愛い」
そう言うと、ロイド様は愛おしそうに目を細め、私の髪を優しくそっと撫でた。
「綺麗だ、ミシェル。君のこのピンクブロンドが朝日に透けて揺れる様は、白薔薇よりもずっと繊細で眩しい」
(もう……かなわないなぁ、この方には……)
顔から湯気が出そうだ。元来はひどく女性嫌いのロイド様。雇用主とメイドという関係だった頃の彼は、常に淡々としていてクールで、笑顔さえほとんど見せなかったのに。
想いが通じ合って以来、この方はまるで別人のように私を甘やかし、愛の言葉を囁いてくれる。私を唯一の特別な存在として扱い、その愛情を惜しみなく与えてくれている。
ロイド様は民に対して公平で優しく、誰からも信頼されている領主ではあるけれど、それでも彼の変化には屋敷の者たちや領民たちも驚いているらしい。「領主様はミシェル様と話している時だけやけに声が柔らかい」、「視線も甘い」、「あんな蕩けたような表情をなさるなんて知らなかった」、「婚約者殿に心底惚れこんでいらっしゃるようだ」と、いろいろなところで噂になっているらしい。アマンダさんがクスクス笑いながら教えてくれたことがある。嬉しいような、恥ずかしいような。
「……そろそろ戻りましょう、ロイド様。朝食、お待たせしちゃってごめんなさい」
そう彼に伝え、私は食堂へ向かおうとした。素敵な朝露の白薔薇をこうして二人で愛でることができ、もう充分満足していた。
けれど、その時。
ロイド様が私の左手を包み込むようにさり気なく握り、引き留めた。
「っ! ロイド様……っ」
「せっかくだからもう少し、ここで君と二人きりでいたい。……おいで、ミシェル」
そう言うと、ロイド様は繋いだ私の手を優しく引き、庭園を歩きはじめた。くすぐったいような喜びが胸に広がり、私の心臓がトクトクと音を立てる。
「……はい」
少し上擦った声でそう返事をすると、私は大人しくロイド様について行った。
小鳥たちが可愛らしい声でさえずり、風が少し通り抜けるたびに、空気が甘く香る。私が一人でここに来た時よりも太陽は高く昇り、空の青さがより鮮やかになっていた。
「たまにはいいな。こうして朝の庭園を二人でゆっくりと眺めるのも」
ロイド様がそう言って、私に微笑みかける。
今この瞬間、私だけに向けられている、温かい眼差し。優しい心遣い。
ふいに胸がいっぱいになり、私はロイド様と繋いだ手にきゅっと力をこめた。なんだか無性に、自分の素直な気持ちを伝えたくなる。
私は彼を見上げて微笑みを返した。
「はい……素敵な時間ですね。こうしてロイド様と一緒にいられて、私すごく幸せです。いつもそう思っています」
そう言うと、ロイド様の足がぴたりと止まった。そして私の顔を、じっと見つめる。
(……?)
どうしたんだろう、急に。
怪訝に思い見つめ返していると、突然ロイド様の端整なお顔が、目の前に迫ってきたではないか。そして──。
「……っ!?」
彼の唇が、そのまま静かに私の唇に重なった。
咄嗟のことで、目を閉じることさえ忘れてしまった。
そのまま硬直している私の視界を、ロイド様の長い睫毛が覆う。唇を重ねたまま、彼は繋いでいない方の手で、私の頬を慈しむようにそっと撫でた。
思わずうっとりしてしまった私は、けれどその数秒後、慌てて彼から離れる。
「こ……っ、こんなところで、とと突然なぜ……っ!!」
パニックになりどもってしまった。距離を取ったけれど、繋がれた手は離れることなくしっかりと彼に握られている。私は熱くなった頬を空いている右手で覆い、あたりを見回した。向こうを巡回している護衛たちは、こちらを見てはいないようだ。……見ていないふりをしてくれているのかもしれないけれど。
ロイド様は妙に色っぽい笑みを浮かべると、少し身をかがめ、私の耳元に囁いた。
「ミシェルがあまりにも可愛らしいことを言うから、朝から抑えが効かなくなった」
「な……っ!」
「本当に、君は私の心を上手に翻弄してくれる。君の言葉や仕草の一つ一つが、こんなにも私の心を揺さぶるのだから。……参ったな」
少し困ったようにそう言ったロイド様の表情は、それでもとても優しかった。
そのまま再び私の手を引き、彼は何事もなかったかのように少し前を歩き出す。斜め後ろで真っ赤に火照った顔で俯いている私は、深くゆっくりと息をついた。……まだ心臓の鼓動が速い。正式な婚約者同士となり、同じお屋敷で暮らしながらも、私たちはいまだ寝室を別にしている。これが初めての恋愛経験となる私にとって、朝の庭園でのキスなんて、照れくさすぎてめまいがしてしまう。
恥ずかしくていたたまれなくて、けれど決して不快ではない。
少し前を歩く大好きな人の、私の手を包む長い指。幸せを噛みしめながらそれをじっと見つめていると、ふいに彼がこちらを振り返り、口を開いた。
「これからはこうして朝の庭園を散歩することを、私たちの新しい日課にしようか」
「えっ……」
弾かれたように見上げると、ロイド様がいつもの優しい眼差しで、私のことを見つめている。
「……はいっ!」
そのことがすごく嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。
早朝の静かで美しい庭園を、一人で歩く贅沢。
それを堪能するよりも、愛する人と二人並んで歩く喜びの方が、何倍も大きいことを知った。
この優しい朝が、明日も明後日も、その先も、ずっとずっと続きますように。
ロイド様の隣で、私は心からそう願ったのだった──。